スマイリーズ ミュージック ジャーニー #1

2014.09.05[Fri] 17:00

さて今回から数回にわたり徒然なるままに私的福岡音楽紀行を書いていこうかと(笑)ただ小生の記憶が不確かなところもあり、あくまで個人的な音楽記憶紀行と考えてください。

小生が福岡に来たのは1972年の夏明け、小学6年生の時、東京世田谷の小学校から西区は原小学校に転入しました。その当時はなかなかに牧歌的な風景が広がる、まだまだほのぼのしたところでありました。
そしてそこから新設された原中学校に進学するのですが、新設だけに自由と云えば自由すぎる雰囲気で、いきなりの制服ナシの校風。直ぐに2年から制服が採用されるも、自由感はハンパなく溢れてました。

そんな中、音楽といえば当時はまだJ-POPなどという括りはなく、歌謡曲・演歌・フォークがカテゴリーの多勢を占めていた時期。小生も部活をしながら深夜放送(オールナイトニッポン・パックインミュージック)を聞き、いろんな音楽に興味を持ち始めていました。

1973年になるとラジオでヒットしていたのが、井上陽水「夢のなかへ」、そしてチューリップ「心の旅」。どれもこれもそれまでの歌謡曲とは明らかに違うテイスト・佇まい、思わず口ずさむメロディ、おまけに地元出身との強烈なキャプション。それはそれは心おだやかではいれらませんでした。

井上陽水「夢のなかへ」

チューリップ「心の旅」

甲斐バンド「バス通り」

学校では、フォークギターでビートルズ(71年解散)やサイモン&ガーファンクル、吉田拓郎を唄う級友たちで教室はにぎやかでした。ラジオと云えば当時、福岡には深夜ワイドの「スマッシュ!!11」(RKBラジオ)という井上サトルさんがやっていた17年に及ぶ長寿番組と、「歌え!若者」(KBCラジオ)という番組が強烈な影響力を持っていました。前者は10代リスナーに圧倒的な支持を得て、LIVEイベントやファン参加のイベントもたびたび行われ、福岡ユースカルチャーのリスニングバイブルになっていました。

かたや「歌え!若者」は地元ミュージシャンが生演奏で参加する番組であり、デビュー前の甲斐よしひろさんも出演してました。その後甲斐バンドを結成し、デビューシングル「バス通り」(1973)でビッグヒットを飛ばします。過去にもチューリップや海援隊なども出演していたため、福岡の音楽“虎の穴”のようにとらえられ、全国的に神格化しました。
この番組のディレクター岸川均師へのリスペクトはプロアマ問わず高く、氏の退職時には福岡サンパレス4DAYs(山下達郎・浜田省吾・チューリップ・さだまさし・サンハウス・甲斐バンド・ARB etc)が行われました。石橋凌(exARB)も氏から大いなる影響薫陶をうけ、リスペクトを込めたイベント「風音」を今でも毎年福岡で開催しています。

サンハウス「有頂天」

75年には後のめんたいロックのゴッドファーザーと謳われたサンハウス「有頂天」でデビュー。フォークからニューミュージックへ、そしてROCKへと時代が少しづつ変化していました。70年代「福岡は日本のリバプール」といわれ、このあとも77年には長渕剛デビューと続きます。
また、この当時洋楽の貴重な情報ソースは、現LOVE FMパーソナリティー松井伸一さんの「ポピュラーベスト10」でした。ここからチープトリックやクイーン、エアロなど、レアな情報を仕入れていました。そしてRevolutionalな80年代へと向っていくのでした。To be continued

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