福岡のFMラジオ局 LOVE FM。周波数76.1MHz。九州北部広範囲をカバーする10ヶ国語の多言語放送局。
Podcast
2019.02.22[Fri] 00:00
2月10日の放送番組から気になった一部の内容を紹介します。
ゲスト 宮地嶽神社宮司 浄見 譲 様
益田:今週は宮地嶽神社についてのお話を伺いたいと思います。今日のゲストは、宮地嶽神社宮司の浄見 譲さんにお越しいただいております。
益田:最近「光の道」とかで興味を持つ方が多いと思いますけど、宮地嶽神社そのものについて教えていただいていいですか?
浄見:皆さんある程度地理が詳しくていらっしゃるでしょうから大体どの位置かお分かりでしょうけど、一番北の方から宗像大社があって、それから私どもがあって、筥崎さんがあって、それから太宰府さんがあるという、そういう遠浅の海があって、それでこちらには松林があってという中の内陸部に神社さんがあるという、そういう位置づけですよね。
そうするとですね、やはり今から2000年以上前になると、この辺は非常に素晴らしい良港であったということが思い浮かびますよね。そうすると当時の船というのは底が平べったい船だったので、大陸から文化が運ばれてきて、その文化がどーんと北部九州の海岸線に渡り着いて、それで船をあげてそのまま文化はこの北部九州の地に眠っていく。皆さん方はこの地域を大事にしながら文化が発展していく、そういう歴史の中の流れがあるんでしょうけれど、そのものを運んできた、文化を運んできた人たちが俗に言う海人族(あまぞく)っていう人たちが向こうから入って来られて、それでそういう人たちの文化がここに眠っている、宮地嶽神社っていうところは志賀島にあります志賀海神社だとか同じご祖先さんを持っていまして、海人族の中にも住吉族という方もいらっしゃって、宗像族という方もいらっしゃって、出雲族という方もいらっしゃって。みんな「すみ」という字が付くんですね。
なぜ「すみ」っていうかというと、当時のパスポートは入れ墨だったんですね。船の入れ墨が胸に書いてある、彫る。それが「むなかた」と。そこから来ているんですね。だから私どもは阿曇(あずみ)というんですけど、俗に言う阿曇族というのはツタンカーメンだとかクレオパトラが眼のふちに入れ墨していますよね。あれを安曇目(あずみめ)って言いますけど、そういう目の入れ墨をした人たちのグループが阿曇族という人たちだったと言われているんですね。そういう方々がこちらに渡って来られて、大きな文化圏を作られて、その大きな文化圏の流れの一つが今日では宮地嶽神社の古墳、また宮地嶽神社というところで、それらの人たちの文化を未だに醸し出している、というのが宮地嶽神社の成り立ちなんです。
ですから、そういうものを統合したところが大宰府の都府楼という。ですから大宰府の都府楼というのは、大宰府が先ではなくて都府楼というのが先に作られて、その後に菅原道真さんの物語が出てきて、菅原道真さんのことがあったので、あそこに菅公さんをお祀りする大宰府が作られたと。元々だから大宰府というところは、北部九州の今で言う首都だったんでしょうね。ですから、そういうところから筥崎さんがあって、宗像さんがあって、私どもがあってというこの北部九州にいろんな文化を伝えてきた神社が未だにたくさん多く眠っているという。
益田:特に旧筑前の国は本当に宝庫ですよね。
浄見:そうですよね。ですから、それこそ歴史の中で言うと今福岡築城450年でしたっけ、ああいうことをおっしゃっているんですけど、実は築城450年以前のほうが素晴らしい文化があったということを、思い出していただきたいし、思い起こしておいていただきたいし、博多に住む人、福岡に住む人たちは、そんなに長い歴史があるんだっていうことはぜひインプットしていただきたいです。