スマイリーズ ミュージック ジャーニー #2

2014.09.12[Fri] 12:00

シーナ&ロケッツ「#1」

70年代後半は欧米のパンクムーブメントも影響し、少しずつ音楽が変わっていきます。東京では東京ロッカーズが気運に火をつけ、博多でも山部“YAMAZEN”善次郎"が率いるザ・ドリルが過激なライブをしていました。1978年になるとサンハウス解散後の鮎川誠氏がシーナ&ロケッツを結成して上京し「#1」をリリース。そして久留米出身の石橋凌が参加したARBがデビューすると、ニューミュージックからJ-ROCKへと、また少しずつ向きが変わります。小生は1977年の夏に沖縄で見た、紫、コンディショングリーン、カルメンマキ&OZのライブが、今でたとえるとフジロック並みに衝撃的で、強烈に記憶が残っています。ちなみに博多のパンクなトレンドは、警固にあった輸入セレクト・ショップ「UFO」が震源地でした。

 

1980年に入ると、誰がつけたか、俗にいう“めんたいロック”といわれるバンドが登場します。まずは陣内孝則率いるザ・ロッカーズ「Who the Rockers」でデビュー。キャッチコピーは「このスピードについてこれるか!」。

11月には、北九州からザ・ルースターズ「ROOSTERS」で続いてデビュー。そのストイックで硬派なアルバムジャケットは、今もなおレジェンダリージャケット&アーティストとしてリスペクトされ続けています。1981年にはザ・モッズが、英国CBSから「FIGHT OR FLIGHT」をリリース。衝撃とともに瞬く間にその存在を世に広めます。

ザ・ロッカーズ「Who The Rockers」

ザ・ルースターズ「ROOSTERS」

立て続けにメジャーデビューした福岡出身アーティストは、雑誌“宝島”などで連日のように取り上げられ、博多の全国的なパブリックイメージは”ビートシティ”として定着していくのです。ちなみにニューミュージック系だけに絞っても、宇佐元恭一をはじめ数多くアーティストたちを輩出していました。

この後、小生の世代が立ち上げたR&Rサーカスというイベントを通じて、フルノイズ、ハカパラ、アンジー、モダンドールズ、ザ・キッズ、アップビート、アクシデンツといった参加アーティストたちが、東京から注目を集めます。ジャンピング・ジャムというオールナイトイベントでは5000人以上を動員し、その伝説のライブは2枚組CDとしてリリースされるほどの盛況ぶりでした。

別の視点で音楽書籍に目を移すと、博多には来福アーティストと地元アーティストを取り上げる雑誌メディアがありました。インディーズマガジン「Blue Jag」、そしてアマチュア・ロックシーンにこだわった「BEATMAKS」。この2誌は東京でも発売され、博多のネイティブな情報をコアなファンに届けていました。
現在はどちらもデータ化され、Webで読むことができます。

80年代の半ばを過ぎると、今なお強い影響力をもつ、スワンキーズなどのハードコア・パンクバンドが続々とデビューします。フォーク〜ニューミュージック〜ビート〜パンクといった流れを経て、多彩な音楽様態を創出する福岡に、全国都市東京から注目が集まり、まさに博多・福岡の絶頂期でした。その後前述のバンドたちは東京に拠点を移し、彼らが福岡を離れてからはしばらく落ち着いた時期が訪れます。
熱が冷めたかのように映りますが、博多に根付いたカルチャーは枯れることなく脈々と続き、まだまだ音楽連鎖は沸き続けているのでした。この続きは次回にではでは

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