福岡のFMラジオ局 LOVE FM。周波数76.1MHz。九州北部広範囲をカバーする10ヶ国語の多言語放送局。
SUN 12:00-14:45
2014.09.24[Wed] 00:00
80年代後半になると、前回書いたバンド達が東京に進出。メジャーレコード会社からデビューを
果たし、地元はしばし沈静化していました。
ちなみに1988年は、拠点を東京に移していたアンジーがメジャーデビュー。この年はバンドブーム世代と呼ばれ、同年ジュン・スカイ・ウォーカーズ、筋肉少女帯なども次つぎとメジャーデビューしていく年でした。
90年代に入ると、89年に始まった、TBSの深夜番組「三宅裕司のイカすバンド天国」(通称イカ天)の影響で、空前のバンドブームが起こります。小生も東京に進出してはいたものの、バンドはすでに解散していたため、その閉塞感からブームを冷ややかな目で見ていたものの、瀕死のライブハウスが次々と一夜にして満員になる現実を目の当たりにして、人を動かす”音楽の力”を実感しました。
そんな中、90年にヒートウェーブ「柱」が、メジャーの巨塔エピックソニーからデビュー。長きにわたる地元での活動を経てリリースされただけに、ある意味ブームへのカウンターアクションのようで、小生には胸がスカッと晴れる思いでした。
この頃から福岡は、情報がメディアや街にあふれかえるようになっていき、福岡らしいローカルアイデンティティーは徐々に薄らいでいっていたように思います。膨大な情報とともに何か大切なものを埋没させていくのでは、という焦燥感と危機感を抱いていました。
そんな博多に95年、後の音楽界に絶大な影響をあたえたバンド、ナンバーガールが誕生。この続きはまた次回。
2014.09.12[Fri] 12:00
70年代後半は欧米のパンクムーブメントも影響し、少しずつ音楽が変わっていきます。東京では東京ロッカーズが気運に火をつけ、博多でも山部“YAMAZEN”善次郎"が率いるザ・ドリルが過激なライブをしていました。1978年になるとサンハウス解散後の鮎川誠氏がシーナ&ロケッツを結成して上京し「#1」をリリース。そして久留米出身の石橋凌が参加したARBがデビューすると、ニューミュージックからJ-ROCKへと、また少しずつ向きが変わります。小生は1977年の夏に沖縄で見た、紫、コンディショングリーン、カルメンマキ&OZのライブが、今でたとえるとフジロック並みに衝撃的で、強烈に記憶が残っています。ちなみに博多のパンクなトレンドは、警固にあった輸入セレクト・ショップ「UFO」が震源地でした。
1980年に入ると、誰がつけたか、俗にいう“めんたいロック”といわれるバンドが登場します。まずは陣内孝則率いるザ・ロッカーズが「Who the Rockers」でデビュー。キャッチコピーは「このスピードについてこれるか!」。
11月には、北九州からザ・ルースターズが「ROOSTERS」で続いてデビュー。そのストイックで硬派なアルバムジャケットは、今もなおレジェンダリージャケット&アーティストとしてリスペクトされ続けています。1981年にはザ・モッズが、英国CBSから「FIGHT OR FLIGHT」をリリース。衝撃とともに瞬く間にその存在を世に広めます。
2014.09.05[Fri] 17:00
さて今回から数回にわたり徒然なるままに私的福岡音楽紀行を書いていこうかと(笑)ただ小生の記憶が不確かなところもあり、あくまで個人的な音楽記憶紀行と考えてください。
小生が福岡に来たのは1972年の夏明け、小学6年生の時、東京世田谷の小学校から西区は原小学校に転入しました。その当時はなかなかに牧歌的な風景が広がる、まだまだほのぼのしたところでありました。
そしてそこから新設された原中学校に進学するのですが、新設だけに自由と云えば自由すぎる雰囲気で、いきなりの制服ナシの校風。直ぐに2年から制服が採用されるも、自由感はハンパなく溢れてました。
そんな中、音楽といえば当時はまだJ-POPなどという括りはなく、歌謡曲・演歌・フォークがカテゴリーの多勢を占めていた時期。小生も部活をしながら深夜放送(オールナイトニッポン・パックインミュージック)を聞き、いろんな音楽に興味を持ち始めていました。
1973年になるとラジオでヒットしていたのが、井上陽水「夢のなかへ」、そしてチューリップ「心の旅」。どれもこれもそれまでの歌謡曲とは明らかに違うテイスト・佇まい、思わず口ずさむメロディ、おまけに地元出身との強烈なキャプション。それはそれは心おだやかではいれらませんでした。
学校では、フォークギターでビートルズ(71年解散)やサイモン&ガーファンクル、吉田拓郎を唄う級友たちで教室はにぎやかでした。ラジオと云えば当時、福岡には深夜ワイドの「スマッシュ!!11」(RKBラジオ)という井上サトルさんがやっていた17年に及ぶ長寿番組と、「歌え!若者」(KBCラジオ)という番組が強烈な影響力を持っていました。前者は10代リスナーに圧倒的な支持を得て、LIVEイベントやファン参加のイベントもたびたび行われ、福岡ユースカルチャーのリスニングバイブルになっていました。
かたや「歌え!若者」は地元ミュージシャンが生演奏で参加する番組であり、デビュー前の甲斐よしひろさんも出演してました。その後甲斐バンドを結成し、デビューシングル「バス通り」(1973)でビッグヒットを飛ばします。過去にもチューリップや海援隊なども出演していたため、福岡の音楽“虎の穴”のようにとらえられ、全国的に神格化しました。
この番組のディレクター岸川均師へのリスペクトはプロアマ問わず高く、氏の退職時には福岡サンパレス4DAYs(山下達郎・浜田省吾・チューリップ・さだまさし・サンハウス・甲斐バンド・ARB etc)が行われました。石橋凌(exARB)も氏から大いなる影響薫陶をうけ、リスペクトを込めたイベント「風音」を今でも毎年福岡で開催しています。