2019年01月

2019.01.30[Wed] 00:00

1月27日の放送番組から気になった一部の内容を紹介します。

ゲスト 珈琲はうす おおいし 大石幸典 様

益田:今日は福岡の戦後の喫茶店の歴史について簡単にお話させていただきます。福岡市の喫茶店、戦前からやっているお店というのは、実は今店屋町にありますカフェ「ブラジレイロ」という店だけなんですけど、戦後になると昭和24年前後ぐらいから新しい喫茶店が増え始めるんですよ。この時代にオープンしたのが、喫茶はもうやっていませんけど、「風月」さんとか、最近復活した「ばんぢろ」さんとか、昭和の名店と呼ばれたお店が次々にオープンして、福岡は昭和30~40年代はもう大喫茶店ブームの時代が来ています。だからもう一つの街にいくつも喫茶店があるという時代があって、高度成長期を経て、新幹線の開業後さらにまた喫茶店がブームになるんですけど、多くの喫茶店がやっぱり一代限りなんですね。後継ぎがいらっしゃらなくて、もうお店を閉めて違うお店になるというのが非常に多くて、入れ替わりが激しかった。その中で昭和55年に博多駅南にオープンしたのが、今日来られている大石さんの「珈琲はうす おおいし」ということになります。

山本:大石さんはコーヒーハウスのオーナーとしてデリバリーしていただけではなくて、ちょっと違った形態のデリバリーをなさっていたそうですね?

大石:最初は家庭用のポットにレギュラーコーヒーを詰めまして、それで量って紙コップの杯数を決めまして18個前後、シュガー、ミルク、混ぜ物をワンセットで、貸し会議室の方に貼り紙をしましてね。セットで2,000円から2,500円ぐらいの値段で、セルフでどうぞということが始まりだったわけですね。それが好評で、「マスター、人数が多いから今度は2本にして」「今度は3本にして」とだんだんエスカレートしていきまして、ポットは前の日にあった分を回収するまでの間に、今度は明くる日にまた別の配達がありますので、例えば1か所で2本用意しないといけないんですね。3本の注文だったら6本用意しないといけない。知り合いの県の医師会というところなんですけど、そこで頼まれるのはありがたいんですけど本数が足りませんので、もうローテーションが間に合いませんのでここにマシンを持ち込みますと。テーブルだけちょっと拝借させてくださいと。あとは下にビニールシートを敷いて、テーブルクロスを掛けて、マシンをそこに2台置いて、マシンから出たコーヒーをそこにストックするタンクと言いますか、保温ポットの8リットルサイズ、10リットルサイズのものを置きまして、そこで喫茶コーナー、コーヒーコーナーというものを作ったわけですね。

山本:じゃあ大石さんは会議の間中そこに常駐されるということですか?

大石:そうですね。

益田:その時代は、福岡ではコーヒーをその場所に行って淹れるというようなサービスをやっているところはなかったんですね?

大石:ありませんでした。だから現場で即興のコーヒーコーナーを構えて紙コップで立ち飲みできるというようなスタンスをとるお店というのはありませんでした。また今は店を完ぺきにやめましたけども、どうしても大石さんのコーヒーを持ってきてくれというのは未だに2グループ残っています。

益田:まだ行かれているんですか?

大石:はい。もう今度は自宅からです。自宅からでもいいからということで。

益田:大石さんの理想とする喫茶店って何ですか?

大石:そうですね。私も学会とかいろんなものに供給をさせてもらいましたけど、その中でもやっぱり愛知のがんセンターから来られている先生もいらっしゃいました。その先生と私と単独でお話した中の話なんですけど、人間1日に3回コーヒーを飲む時間を作ってほしいということを聞いたわけですね。それはコーヒーが目的ですかって聞いたら、いやコーヒーが目的じゃなくて、つまりこれだけパソコン、いろんなもののストレスがある現代で、1日に3回ぐらいくつろげる時間をちょっと作ってほしい、その時にコーヒーを飲む時間を作ってほしいということですね、ということを言われたわけなんです。つまり午前中の、出勤されてお昼休みまでの間、10分ぐらいで結構です。コーヒーでなくても結構ですので、ちょっと頭を空っぽにする時間を作ってほしい。そのときにレギュラーコーヒーを飲まれたら、身体の方の神経もちょっと、カフェインが入っていますのでちょっと刺激性があって、次のラウンドに行こうというやり方ということらしいんです。それをストレスの解消のために、食後のコーヒーも入れまして1日に3回、ティータイム3時頃を作ってほしいということなんですね。私から言いたいのは、コーヒーはとにかく何々のコーヒーだからとか、どこの産地のコーヒーだからとか、そういうことにはこだわらずに、自分のお口にあったコーヒーを、美味しいと思われるコーヒーを、何でもいいです。それがブレンドであろうがサントス、コロンビア、モカ、キリマンジャロ何でも結構です。美味しいと思ったコーヒーを手元に置いてくつろいでほしいというのが私の本音ですね。

益田:そういう空間を提供するという?

大石:そうですね。そういう空間を、あったらいいなということですね。それも気楽にとにかく行けるところということですね。

益田:ありがとうございました。

2019.01.28[Mon] 00:00

1月20日の放送番組から気になった一部の内容を紹介します。

ゲスト 珈琲はうす おおいし 大石幸典 様

益田:今日は福岡の喫茶店文化の歴史を辿ってみたいと思います。昔ながらの喫茶店は年々減っていっていますけど、実際に喫茶店をされていた大石幸典さんにお越しいただいてお話を伺っていきたいと思います。

大石:喫茶店を昭和55年から開業いたしまして、去年平成30年の10月末をもって閉店させてもらいました。

山本:昭和55年オープンということですが、そのときの喫茶店はどんなものが主流だったんでしょうか?

大石:ほとんどがスナック喫茶でしたね。

益田:お酒が出るということですかね?純喫茶というかたちではなくて。

大石:そうですね、お昼はコーヒー、食事、そして夜はアルコールに切り替わるというお店ですね。

山本:そういう形態をスナック喫茶っていうんですね。

益田:さかのぼってみると戦前からやっぱり同じような形態の喫茶店ってあるんですけど、戦前はそういうお店はカフェーって言っていたみたいですね。アルコールも出すお店はカフェーで、コーヒーが主体のお店はコーヒー店、もしくは喫茶店と。

山本:そういう中で「珈琲はうす おおいし」は純喫茶?

大石:そうですね。やっと見つけた場所、お店をバックにして180度見ますと、もうすでに5、6軒喫茶店が見えていました。それがほとんどスナック喫茶だったんですね。だから私はあえてコーヒー専門店をやろうということで、あまりバリエーションを広くせずに絞ってやろうと、コーヒーに関する商品を絞ってやろうということから始めたわけですね。

山本:そうですか。種類を絞って?

大石:はい。つまり、あまり幅広く商品を出しますとどうしても品物が薄くなってしまうと言いますか、薄っぺらくなってしまうという意味合いですかね。そんなふうに私は感じ取りましたので、まあ一点集中主義という感覚で、やはり良いものを徹底的に追求してそれをお客さんに供給しようという、コーヒー専門店という考え方で取りかかったわけです。

山本:特に大石さんが、コーヒーをこれに絞ったといういくつかを教えていただけますか?

大石:そうですね、当時どこのお店に行っても薄いアメリカンタイプのコーヒーが主流の時代だったんです。アイスコーヒー、ホットコーヒーが普通でしたけども、一時期的なものでしょうけどアメリカンが主流の時代だったわけです。コーヒーも、出てきますとカップの底が見えるくらい薄いコーヒーでした。

益田:紅茶みたいな感じですか?

大石:そうみたいですね。何で?と言ったら、いや今までは男性の方の昔から戦前戦後の方が主流の飲み物というイメージを脱却するために、やはり女性に親しんでもらおうと薄く飲んで飲みやすくしようという名目で始まったのが由来ということなんですね。

益田:アメリカンって、そんなかたちで始まっているんですね。

大石:ということを聞いたような記憶があります。ですから、私はその薄いコーヒー、それはそれでいいんですけど、私のお店のほうとしてはやはりわざわざ足を運んでもらって休憩に来られるお客さんは、コーヒーを飲んで会社に戻られてテーブルに着くまでの間に口の中でコーヒーの香りが残るくらいの、苦いコーヒーではなくて、香りとコクのあるものを目標にして作ったわけなんです。

山本:でもそのポリシーが何だかこうすごく響きますね。

益田:そうですね、私もいくつかメニューを試させてもらったりしたんですけど。

山本:ここに「珈琲はうす おおいし」の最後のメニューがありますね。アレンジコーヒーがまた面白くて。

益田:そうですね、アレンジコーヒーだけでもかなりの数、30ぐらいあってですね。

山本:ちょっと気になるものを言ってもいいですか?モカケンブリッジ。これはどういうコーヒーなんでしょうか?

大石:これはアイス系統のアレンジコーヒーなんですね。モカケンブリッジ、これはあくまで私のほうで勝手に名前を付けさせてもらったものなんですけど、ベースとしてはやはりアイスコーヒーにアイスクリームを入れて、それを今度はチョコシロップを少し垂らしましてね。それもミキサーにブイーンとかけるわけです。そしたら泡が立って、要するにブラウン系の飲み物ができるわけですね。それを氷の入ったグラスに頭から直接注いでいただくと、ビールのように上の方は泡が立って、下はちゃんとオーレの色なんですね。飲みますとチョコシロップの香りがして、それでお客さんがおいしいと言った時には必ず上唇に泡が付いているという。

山本:これちょっと作り方を聞くとおうちでもやってみたいなと思いますけど、たぶん違うんだろうな。

益田:ですね。大石さんのところで今風でいうインスタ映えっていうことで若い人たちもよく頼んでいたのがカフェオレで。大石さんのところのカフェオレは本当に綺麗ですよね。

山本:何が違うんでしょうか?

大石:インスタ映えするそのカフェオレっていうのはアイス系統なんですね。ロングタイプの、少し長めの円筒形のカップを用意しまして、氷を先に入れまして、今度はミルク、普通でいうオーレですのでミルクとコーヒーですよね。ですけど、私の方としては先にミルクに味、甘みを付けたガムシロップを含ませまして、それを3分の1ほど注ぐわけです。それを10秒ほど置きますと落ち着くわけですね。注いだときは波立ちますので。それを待って、それから今度はロングスプーン、我々はティースプーンと言いますけど、ロングスプーンでアイスコーヒーを入れた器からそれに当てて注いで、氷にめがけてゆっくりと注いでいくわけです。

山本:スプーンの柄の部分から?

大石:柄の部分に当ててですね。柄の部分をつたって氷に当たるように中で入れていって、ちょっと時間をかけてゆっくりと上げていくんです。そうしたら、ガムシロップの入っているミルクですので、濃縮されて比重が違うわけですね。ですから下の方に沈殿して固まるわけです。アイスコーヒーは比重が軽いですので、ですから上に置くわけです。だから綺麗に下がホワイト、上はブラックのツートーンのコーヒーができあがるわけです。

益田:綺麗な二層の、はい。

山本:お客様はそれを飲むときに自分で?

大石:はい。ただ最初に私はストローを付けて出しますけど、あえてそれを混ぜないでくれと。まずそれを見てくださいと。

益田:見て楽しめる、大石さんのこだわりがつまったメニューだったんですね。

山本:まさにこれパチリとやりたくなりますよね。

大石:そしてストローで下の方のミルクの味を味わっていただいて、それからゆっくりと混ぜていただいて、次に味わってくださいと。大きく分けて2段階に味が変わりますよということですね。

山本:その大石さんのコーヒー、お話聞けば聞くほど飲んでみたいんですが、今ではもう飲めないというのがとっても残念ですね。

益田:幻になってしまいまして、私は最後閉店する前に大石さんにおねだりして、アイリッシュコーヒーとか先程のお話のカフェオレを、実際淹れているところも全部写真に撮らせてもらったんですよ。

山本:うらやましいです。

2019.01.23[Wed] 00:00

1月13日の放送番組から気になった一部の内容を紹介します。

ゲスト 筑紫野市教育委員会 小鹿野亮 様

小鹿野:筑紫野市の原田という場所があるんですけど、そこには筑紫神社という神社がありまして、その筑紫神社の御祭神になっているのが、筑紫の国の神であります「筑紫神(つくしのかみ)」というのを祀っていますので、そこに筑紫(つくし)という音を残しているということにはなるんですけども、非常に重要な神社だというふうに思っているんですね。

山本:筑紫神社が重要な場所というのは、どういった意味があるのでしょうか?

小鹿野:これは地理学的な研究になるんですけど、筑紫神社があるところを中心に、国境が引かれているという考え方があるわけですね。しかもその国境は直線なんですよ。放射状にまっすぐ伸びるということが言われていまして、わかりやすいのは筑紫神社から筑紫野市の原田ですけども、南に行きますと、今の小郡市と佐賀県基山町の、言い換えれば県境になるんですが、まっすぐ南北に県境が伸びているところがあるんですよ。そのあたりにぶち当たってくるんですね。実はその国境線は古代の官道なんですけど、そういう意味で境目にある神社として古代から非常に重要なんですね。

それと筑紫神社自体は、平安時代の10世紀に書かれている延喜式という文献資料があるんですけど、延喜式に記載がされている神社なんです。朝廷から神様の位をもらっていますけど、言い換えれば平安時代からすでに、同じ場所かどうかはわかりませんけど、筑紫神社というのはあったということになりますから、そういう意味では古代史で、地域にとって重要なんですね。ましてや冠に筑紫という字がついておりますから、そういう意味で重要というのは、そういう理由ですよね。

山本:もうそのままの形で残っているんですか?

小鹿野:神社はですね、建物自体は新しいもので、だから全く古いものがそのまま残っているわけではありませんけれど、場所が非常に大事ということで。これは実は説話がありましてね、筑紫のその由来ともつながってくるんですが、国境の坂があまりにも険しくて、馬の鞍が擦り切れるんで鞍を尽くすと言ったのが転化して「つくし」になったという説があったりとか。もう一つが、荒ぶる神が境目にいて、人々が往来するのを邪魔して命を落とすというようなことがあったらしいんですね。命を落とす、命尽くすということからという説があったりとかですね。

それから筑紫神社の御祭神の筑紫神とですね、そういった伝説、今言っているのは、逸文といっている風土記が作られますね、それの断片的なやつを集めたなんですけれど、その中に記載があるそうで、古い呼び方としては「つくし」という言い方が音としては正しいのかもしれませんけど、ただ先程お話したように奈良時代にすでに「ちくし」と「つくし」が併存しているという状況もありますから、そのあたりは当時どういうふうに使い分けられていたのかが分かりかねるというのが現状なんですけどね。

益田:確証になるものがないということですか?

小鹿野:そうですね。筑紫神社がある場所というのが国境でもあって、名前がそのままついてますからね、古いということもはっきりわかっていますし、重要な場所だっていうのはやっぱりそういう意味でしょうね。

益田:先程筑紫神社がですね、延喜式という話がありましたけど、九州18か所あって、そのうち11が昔の筑前の国にあったということで、その一つが筑紫神社ということになりますね。そのあたりの位置関係なんかは私すごく興味があるんですが、例えば筑紫神社と竈門神社の上宮を結んで、その延長線上に筥崎宮があって、さらにその延長線上に実は志賀海神社があるんですね。一直線につながっているということだったり、同じ延喜式の中にある美奈宜神社なんかは、今度は筑紫神社から放射状に伸びていると。そういったことからも位置関係が重要なんじゃないかと思っていますけど、小鹿野さんはどう思われます?

小鹿野:難しい問題ですよね、これはね。

益田:証拠が出てこないので。でも偶然とは思えない。例えば筑前一之宮ですね、住吉神社と香椎宮は本殿の位置って志賀海神社を起点にすると距離が同じなんですね。2メートルから3メートルしか誤差がないです。

小鹿野:偶然ということはなさそうなんですけど、証明するのがやっぱり難しいところですね。古代の測量というのがどうだったのかということもあると思うんですが、実態がわからないというか。

益田:どういう測量法だったのかもわからないんですよね?

小鹿野:そうですね。測量道具が何を使っていたとか、そういうことも全くわからないものですから、何とも言いようがないんですね。ただ、直線というのは古代の謎を解く一つのキーワードになるだろうというふうには思っています。古代の道も直線、大宰府の都市も碁盤の目状にはなっていますけど直線ですよね。朱雀大路はですね、方位が適当に作っているわけじゃなくて、東西南北にぴちっと方位が合っているんですね。だからそういうことを考えると、おそらく今でいう天文学みたいなことなんかもやったんでしょうし、実態はわかりませんけどね。風水とか、これはたぶん技術だと思いますけど、取り込まれてはいたんだろうなという想像はするところなんですよね。

益田:結界をはるようなイメージですかね?街を、その都市を守る、神社を守るという。

小鹿野:今は街っていうと面というイメージがありますけど、古代の街っていうのは線でつながっているという、そういうイメージなんだと思っているんですよね。だからそういう意味で直線と、益田さんがおっしゃった神社の位置関係なんていうのも、やはり一直線上に並ぶっていうと、これは何かありそうだと。

山本:そうでうね。確かに、線と考えると何となくしっくりくる。

小鹿野:実際そこに古代の遺跡がどういうふうに広がっているかとか、私たちもいろんな視点をもって評価をしていかなければならないんだろうなというふうには思っています。

2019.01.18[Fri] 00:00

1月6日の放送番組から気になった一部の内容を紹介します。

ゲスト 筑紫野市教育委員会 小鹿野亮 様

小鹿野福岡という街は弥生時代以来ですね、2000年以上前から、海との関わり、大陸との関わりがものすごく深いわけですね。そういうわけですから、神功皇后伝説のような物語、実際それが本当かどうかという問題はありますが、残ってきているんだと思います。特に福岡には伝承地が多いですよね。そもそも神功皇后というのは仲哀天皇の妃なんですけど、福岡で一番関係が深いのは熊襲を討伐するときと、朝鮮半島の新羅を征討するという物語が有名だと思います。

山本:どれぐらい前のお話なんですか?

小鹿野:古事記と日本書紀ですね。これにその物語が記述されているんですけども、素直に読むと1800年ぐらい前の人物ということにはなるそうなんですが、もし神功皇后が実在したと仮定した場合ですね、4世紀から5世紀の初めのことだと言われているようです。

山本:その神功皇后についてはいろいろなお話がありますよね?

小鹿野:新羅を攻めるということが書かれているんですけれど、筑紫の橿日宮に来るわけですよね、そこから西へ行って、今の唐津の辺り、松浦で鮎釣りをして占いをしただとか、妊娠して身重でありながら男の格好をして新羅を攻めるために海を渡ったとか、武人としてのイメージもあるんですね。朝鮮半島との関わりの中で神功皇后という人物をよりどころというか、そういう風にして物語として地域に定着していくと。いろいろな神社との関わりが深いですよね。海八幡は応神天皇ですね、息子ということに一応なりますね。ですから、応神天皇の出生の地が宇美町ということに、その場合はなるでしょうし、だから宇美町だというふうに言っているらしいとか、応神天皇のおしめを変えたから志免町だとか、嘘っぽいようで本当のような、冗談のような話なんですけど。

山本:でもそういう伝説が残っているんですよね?

益田:博多湾沿岸は多いですよね。

山本:私、卑弥呼のモデルなんじゃないかという話も聞いたことあります。

小鹿野:そうですね、そういうことをおっしゃる方もいますね。ただ、実在性とその時代ですよね。なかなかそのあたりが難しいところではありますけど。

山本:はっきりとこうですとは言えないところにまたロマンを感じますよね。

小鹿野:そうですね、おっしゃるとおりだと思います。

益田:神功皇后伝説、いろいろありますけど、その時代を含めて朝鮮半島との関わりについて、いろいろ残っている話もあるんですよね?

小鹿野:時代は、いろいろな時代にわたってくるとは思うんですけど、例えば神功皇后の伝承が残っているところで、神功皇后が新羅から帰られて都へ戻られるときの物語で、ショウケ越と言って今の福岡から飯塚の方へ抜ける峠があります。弥生時代とか非常に古い時代からの古道だと言われていて、そういったところを越えてですね、今の飯塚の大分(だいぶ)八幡というお宮があって、そこで兵を解散するというような物語があるんですけど、何を申し上げたいかというと、実はその先にある豊前とか筑豊とか、あの地域には実は新羅のデザインを用いた古瓦がたくさん出土するんですよ。
古代から渡来人が、特殊な技術を持ってこちらにやって来て、例えば焼き物を焼くだとか、瓦を作るだとか、織物を織るだとか、そういうような技術を持って日本にやって来て、特に福岡はそれが多いんですよね。もちろん近いせいもあるんですけど、そういった物が出てきますし、先程お話した太宰府でも、実は新羅のその製品だと言われているんですが、佐波理(サハリ)という錫と銅の合金で作られたお椀みたいなものだとか、スプーンですね、匙とかも出土していまして、これは太宰府市になるんですけども、奈良の正倉院の宝物にもそれが入っているようなものでして、そういったものが太宰府あたりにも持ち込まれていたりとか、いろいろな関わりが深いんですね。

山本:それは技術を持った人が来て伝えたということでしょうか?それとも、その物自体が?

小鹿野:それは両方あると思います。物自体がやって来ることも、例えば先程の青磁の壺ですとか、そういうこともありますし、古代の日本には青磁とか白磁、いわゆる磁器ですね、焼く技術はありませんので、全部海外から持ってきて、というケースもありますし、逆に、養蚕なんてそうですよね、絹織物なんていうのはもう弥生時代から出てきますけれど、そういう技術は朝鮮半島から渡ってやって来たのだろうと思いますよね。
そのほかにも、志賀島には志賀海神社というのが祀られていますが、志賀海神社は海の神様ですよね。海を渡る航海の技術とか、あるいは海上の交易をしたりとかを担っていた阿曇氏という氏族が、その祭祀をつかさどって、管理をしていたということで、その神功皇后が新羅を攻めたときには、神功皇后は志賀島に立ち寄って、阿曇の磯良という人物に舵取りを務めさせたというような伝承もあるそうでして、海との関わりが非常に深い物語も残されています。

2019.01.10[Thu] 00:00

12月30日の放送番組から気になった一部の内容を紹介します。

ゲスト ミュージアムプロデューサー 砂田光紀 様

山本:今年最後となりました。今日はですね、大晦日、そしてお正月の過ごし方、昔からどんな風に過ごしていたのかなというのを聞いてみたいのですが、砂田さん、昔の文献などに残っているものはありますか?まずは大晦日から。

砂田:そもそも大晦日って何だろうと。昔は年取りの晩って言ったんですけど、それは世の中が年を取る、人間が一つ年を取るということで年取りの晩なんですね。この年取りの晩に、前回も少しお話をしたかもしれませんけど、要は時間が非常に不安定になるんです。前の年と次の年の間で時間が入れ替わらなければならない、そこはとても不安定な場所だから魔物が現れやすいんですね。昔の記録とか、つい最近までの習俗とかにもあったんですけど、まず一般家庭ではどうしたかというと、雨戸を閉め立てます。そして、履物を全部家の中に隠します。さらに井戸の釣瓶や竿、洗濯物を干している物干し竿ですね、こういうものを立てかけてその先に竹で編んだ籠を引っ掛けておくんですよ。家の中では囲炉裏に普段は焚かないような大きな木をくべて、一晩中火を絶やさないで家の中で静かに過ごすんです。これは何でかっていうことですね。

益田:言われたように、魔物が入って来ないようにということですか?

砂田:まず存在を消してしまうわけです。要するに、魔物が来た時にどこかに人間はいないかとなりますが、おりませんよという作戦ですね。じゃあなぜ竹の籠を下げておくのかというと、昔から魔物は嫌いな模様が決まっているんです。例えば、バツ、鍵型、L型のようなもの、渦巻きも嫌います。全世界的に魔物はこういうものが苦手なんです。
もっと言えば星形、陰陽師で出てきますね。星形にしゃっしゃっと印を切りますけど、これも封じ込める力を持っていますから、一筆書きの星を描いてみてください、真ん中に閉じ込められるじゃないですか。だから、籠は魔物にとっては非常に恐ろしいもの、ドラキュラにとっての十字架みたいなものですね。そういう模様はいろいろあって、ギザギザの鋸歯文(きょしもん)、鋸というのはのこぎりですね。のこぎりの歯の文様を鋸歯文というんですけど、こういうギザギザ模様とかも嫌います。そういう嫌いなものを用意するんですね。だから籠目というのは、昔から鶏を閉じ込めたりとか、そういうことにも使いましたし、あるいは鳥を捕まえるときにも使ったりして、要は封じ込める力があるから、竹の籠を外に吊るして、とっ捕まえちゃうぞと威嚇するわけです。村の入口に大きなわらじとか下げるところあるじゃないですか。あれも、この村にはこんなお前より怖いのがいるぞと。だから巨大なものを作るときは大体そういう理由があります。大晦日の晩は魔物が入ってくるということを昔の人はよく分かっていたということになります。そういうふうに意識していたということですね。
神社とかではどうかというと、今で言えば半紙ですね、和紙を人型に切って、その人型のものを力のある、例えば神社の宮司さんとかが一般の方の背中にサッサッサと当てて悪いものをそこに封じ込めて、その人型に切った和紙をフッとひと吹きして川に流すんです。これは実は雛祭りとも関係があるんですけれど、身代わりですね。その人についた一年の悪いものを全部付けて流して新しい年を迎えることで、魔物の侵入をそこでシャットアウトするという、大祓と言いますが、大祓の儀式をいまだにやる神社が九州にもいくつかあります。ですから大晦日の晩は浮かれて外に飛び出すよりも、本当は昔の人は静かに家の中で過ごしていたということになります。

2019.01.07[Mon] 00:00

12月23日の放送番組から気になった一部の内容を紹介します。

ゲスト ミュージアムプロデューサー 砂田光紀 様

益田:今日はクリスマスのイルミネーションが輝いているということで、クリスマスにまつわるお話をミュージアムプロデューサーの砂田光紀さんをお招きしてお話を伺います。

砂田:よろしくお願いします。

山本:今日はクリスマスについて伺っていますけど、サンタクロースというのも当時一緒に入って来たんでしょうか?

砂田:サンタクロースがいつ入ってきたのかも詳しくわかっていないんですよね。全世界的かというとそうではなくて、クリスマスイブにプレゼントを持ってくる人は、実は男性とも限らない、国によっては魔女が持って来たり、いろいろな違う名前の男性が持って来たりとか、真っ赤な服を着ているとも限らない。しかしながら必ず誰かがプレゼントを届けてくれたり、やって来ると。

山本:年末は必ず誰かが来るんですね。

砂田:まあ、そういう例は多いです。じゃあなぜかっていう話になるんですけど、突飛な話をしますが、日本で大晦日にやって来るものって知っています?紅白だけじゃないんです。例えば東北秋田とか行くと、なまはげがやって来ますでしょ?今はいろんな時期に冬になると現れる観光用のなまはげもありますけど、本来的には大晦日で。

九州で言うと鹿児島県の甑島という島があるんですけど、この島ではトシドンという神様が子どものいる家にやって来るんですよ。この神様がちょっと怖くて、首無し馬に乗ってくるというんですよ。すごい恰好をしています。鬼みたいな面をかぶって、ソテツの葉っぱで飾ったりとか、それで鼻が高かったりとか、牙が出ていたり、集落によっていろんなかたちがあるんです。その神様が「オラー!」とか言ってドンドンドンと玄関を叩くわけですよ。それまで紅白を楽しく見ていた家族団らんにいきなり。それで親も電気を消しちゃったりなんかして。「オラー、○○はいるか?」って名前もばれているという。なまはげと全く同じですね。ただ、なまはげは包丁を持っていますけど、トシドンは刀を持っています。もちろんフェイクの刀ですけど。これがやって来て、「ほらここに正座しろ」「座り方がなっとらん!お前らは」とか言い始めるわけですね。例えば「お前は最近ゲームばかりして全然勉強していないだろう」とか「昨日妹を泣かしたな」とか言うんですよ。ドンピシャなんですね。子どもの方は完全にびびり上がってしまったところに、ゲーム機も取り上げてしまったりするんですね。それで子どもたちはもう泣きじゃくっている状態で、そこで「よし!一曲歌え!学校で習っている歌を歌え!」とか無理難題を吹っ掛けるんですが、子どもたちは必死で対応するんですね。親は笑いながら後ろで見ているんですけど、たまにトシドンの使いに扮した近所の人たちが竹ぼうきで壁をガサガサってやって一緒に脅したりして。それは単に子どもをいじめているわけではなくて、トシドンは天の上からいつも見ているぞ、と言うわけですね。来年もまた来るからねと言われると、子どもたちも何が何だかわからなくなって「ハイ」とか言っちゃうわけです。「じゃあわかった、後ろを向け」「お母さんの言うこと、おばあちゃんの言うことをちゃんと聞け」と言って、後ろを向いたらトシドンが「今からお前に良いものをあげるから」と、背中に大きな鏡餅を背負わせるんです。それの名前が何と言うと思います?トシドンは言うわけですよ、「これをお前に渡すから、これを食べれば一年風邪を引かずに健康でいられる」と。

山本:お年玉?

砂田:そう、「トシダマ」っていうんですよ。皆さんね、お金を渡せば良いってもんじゃないんですよ。子どもたちに、一年間元気に生きていけるエネルギーを渡してくれるんですよ。そして、また来年も来るからねという一言を残してトシドンは首無し馬に乗って去っていくという。

山本:もともとお年玉というのはお餅だったんですか?

砂田:全部がそうとは申し上げませんけど、そのお年玉という言葉が意味するのは全く同じものだと僕は思っています。そして、なぜそんなことを言うかというと、先程申し上げた秋田と鹿児島、この離れたところに大晦日の晩にやって来る神様。全国には、神様は現れなくても、実は仮面来訪神、あるいは仮面じゃないかもしれませんけど、来訪神が大晦日の晩にやってくるという伝承自体は日本中にあるんです。ということは、この習俗は日本中にあったと考えるのが柳田国男的な民俗学の考え方なんです。

仮面来訪神に限らず異形の来訪神が特に大晦日にやって来るのには実は事情がありまして、来訪神がやって来るときって、時間の流れがすごく不安定になっているときなんですよ。私たちは一年中漫然と過ごしている気がしますけど、よくよく考えてみたら春夏秋冬で暦ができていて、大晦日の晩は一年が終わって次の一年に突入する境目なんですね。境界というのはとにかく魔物が侵入しやすい不安定な時期という考え方が世界中にあります。ですから、その不安定な時期は本当のことを言うとみんな家でじっとしていなければならない、そこにつけ入るように悪い神様がやって来たり、あるいは悪くもない神様もやって来るんですけど、そこで人間悪いことしてないか、ちゃんと暮らしているかっていうふうに覗いていくんですよ。そこに悪い霊が入ってくることも無いとも言えないので、皆さんがいろいろな飾りつけをして魔物を除けるんです。そういった例は九州内各地で見ることができるんですけど、お正月の門松とか、あるいはちょっと時期がずれますけど、元々本来的な意味は似ているんですが、節分の焼嗅(やいかがし)とか。軒先に柊の葉っぱと、昔は鰯の頭を刺していたんですけど、要は、鰯は臭いがしますよね、特に時間が経つと腐ってきたりして。その力と、柊の葉っぱのトゲトゲが、魔物が嫌がるものなんですよ。さあそこで考えていただきたいんですが、皆さんクリスマスに玄関先に何か丸い物を下げませんか?

山本:リース。

砂田:リースって柊の葉でできていて、そこに赤い実がついていますよね?そこが共通するわけですね。だからクリスマスツリーも針葉樹を使いますよね。モミの木にデコレーションしてキラキラと輝かせますよね。門松は、今はああいう形で竹を鋭く切ったものが3本に、松と赤い実が飾られて、皆さん縁起物だと思っていますけど、一番不安定な時間帯をそれで守っていると考えられます。

益田:除夜というか。

砂田:年取りの晩というのが正解なんですが、その時にしめ縄を張って、昔は。要は、魔物はここまでですよと、良い物しか入れませんよということで、橙がぶら下がっていますよね、適当にこれを持って帰ってくださいと。そこに炭がぶら下がっていたりしますが、炭は全てのものを清浄なものにするものですね。だから魔除けのシステムとしての機能が実は門松とかにはたくさんあるんです。正月の話はまた置いておいて、とにかくクリスマスと日本の正月飾りとかと、あるいは節分と非常に合致した部分があります。それとサンタクロースですけど、サンタクロースはよく得体のわからない人ですよね。でも子どものもとにやって来る、そしてプレゼントを置いていくところってトシドンとかと同じですよね。

山本:本当ですね。でも着ているものは違いますよね?

砂田:トシドンは白で作った蓑みたいなものを体中に付けていたりとか、あるいは萱とか藁とかみたいなもので草の衣を身に着けていたりして、自然のものを身に着けています。

山本:でもサンタクロースは赤くて可愛い服ですよね?

砂田:サンタクロースの赤の話も諸説ありますよね。某飲料メーカーのキャンペーンで赤くなったんじゃないかとか、そういう話もありますけど、こればかりはよく分からなくて。しかし赤だったり青だったり国によって象徴する色があるんですね。とても面白いのは、なまはげも天の上から見ている神様で、怖い神様だけど子どもたちを守ってくれる、我々人間にとっては実は味方の神様ですよね。サンタクロースも同じように家々を回って貧富の差を問わず子どもたちにプレゼントしてくれる神様、つまり子どもたちに何かを置いていくわけですよ。非常に共通した要素が多くあって、これは偶然でも何でもなくて、やはり年の変わり目に対する発想というのは世界的に共通だったのではないかと文化人類学的には考える人も多々いらっしゃいます。

益田:年の変わり目を意識するということ自体が、そういうことなんでしょうね。清めて。

砂田:そうですね。何とか一年過ごせたよと、次の年もまた無事であってほしいなと、スムーズに年が入れ替わってほしいというのは、昔から西洋東洋問わずあったのかなと思います。

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DJ紹介

  • 益田啓一郎
  • masudakeiitiro
  • 博多で企画執筆業。古地図や古写真の研究を通じて地元福岡だけでなく九州各地の歴史文化に興味精通。趣味は演劇鑑賞&音楽ライブ、ブラタモリ案内人。

  • 山本真理子
  • Mariko Yamamoto
  • 誕生日:9月20日 乙女座
    血液型:O
    出身地:長崎
    訪れたことのある国:アメリカ、カナダ、イギリス、フランス、タイ、香港、済州島
    特技:おいしいお茶を入れること
    好きな音楽:ソフトロック

    LOVE FMに戻ってこれました!HAPPY!

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