福岡のFMラジオ局 LOVE FM。周波数76.1MHz。九州北部広範囲をカバーする10ヶ国語の多言語放送局。
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2019.03.15[Fri] 00:00
2月24日の放送番組から気になった一部の内容を紹介します。
河合:平成筑豊鉄道は、その名の通り筑豊と京築を結んでいる鉄道でございます。第3セクター鉄道ということで、簡単に言いますと、県や沿線の市町村様から出資をいただいております。要はですね、地域の皆さんと一緒に運営して頑張っている鉄道ということです。
益田:具体的にはどのあたりを走っているのでしょうか?
河合:そうですね。直方から田川を通りまして行橋まで走っています。
益田:結構距離ありますね。
河合:そうですね。全部で50キロ弱ぐらいです。ただ逆に言うとマラソンで走れるぐらいの距離ではありますね。
砂田:元々この鉄道の成り立ちが明治28年に豊州鉄道株式会社といって、伊田と行橋を結ぶ、石炭を運ぶための鉄道として敷設されましたので、それがどんどん石炭産業が発達する中で大量輸送するようになっていくと。その中でできれば複線にしたいという考えがあったんですね。要するに、港に向かって石炭を田川方面から下ろして行くんですけど、単線だと空荷で上がってくる貨物列車とすれ違わなければいけないので複線にする予定があったんですね。ところがこれは実現しなかった。だから今でも複線にしようとしていた痕跡が残っているのが面白いんです。
益田:筑豊ってことは石炭産業ですね。炭鉱と切っても切り離せない歴史と文化があるということですね。
砂田:先程申し上げた内田三連橋梁なんていうのは、片面に石がはってあるんですけど、もう片面はレンガで、しかもデコボコになっているんですね。デコボコはなぜかっていうと、そこに継ぎ足して反対側も作る予定だったんです。もう一つ有名な石坂トンネルっていうのが。社長さん、あれは源じいの駅の近くですよね?
河合:そうですね、ええ。
砂田:とても面白い形をしたトンネルで、横に長いんですよね。普通トンネルって割とこう真ん丸に近いか、少し上が半円になっている細長い形が多いんですけど、扁平な円形というかアーチになっていまして、それはなぜかって言うと複線にするために幅広く作ってあるんですね。ところがそれが実現しなかったんで、その広いトンネルの中の端っこの方を走っているという、ちょっと面白いトンネルになっていますね。
益田:普通は単線用のトンネルがほとんどですよね。
砂田:はい。これもレンガで作られているとか、あと橋梁ですけど、いくつもレンガの橋があって。ふつう一般の方は見逃すんですけど、大堰堤と言って、まるで堤防のようにずっと土を盛り上げて作った上を走る区間が多いですね。だから大変な労力をつぎ込んで作った素晴らしい鉄道遺産でもあると思います。
山本:河合社長はそのあたり、乗っているお客様からいろいろと「ここ面白いね」なんて言われること、ないですか?
河合:そうですね。乗っている方というのは逆にそれを当たり前と思っているんですが、ただ本当に全てが100年前のもので、しかも当時の明治の方たちが一つ一つレンガにしろ、手で重ねていったと。そういったものが当たり前になっていることがすごいなと思います。
山本:それを今に残す努力もされているんですよね。
河合:そうですね。元々複線にするつもりだったけどまだ単線ということで、そういった意味では未だに完成していない鉄道なんですね。100年以上経っていますけど。ですから、鉄道を守っていくだけではなくて、やっぱり昔の人が夢を持って鉄道を作った、それを忘れずにまだ未来に向かって鉄道を作っていこうと思っています。
山本:そのゆとりのある部分を見るだけでも、思いを馳せることができますね。
河合:そうですね。実際にレンガを触ると、それが100年前の手触りだからですね。
山本:乗ってみたい、そしてゆっくりキョロキョロしたいなという感じがしますね。他にマニアックな見どころというとどこになりますか?
河合:見どころとしましては、私どもの鉄道の中心である田川ですね。田川には二本煙突という、こちら煙突が2本あるのを見たことがあると思うんですけど、炭坑節発祥の地でございます。それと鉄道の絡みなどがですね、写真で撮ったりしても楽しいのかなと思いますね。
山本:確かに色のコントラストも綺麗ですものね。
益田:平成筑豊鉄道の電車は、車両が可愛いですよね。
砂田:おすすめポイントっていっぱいあるんですけど、田川には本当に炭鉱、石炭を積み込んでいた車両としてのポイントがいっぱいあって。まず、それぞれの駅のホームがえらい大きいんです。車線が多かった、線路がたくさん敷設されていて入れ替えができるようになっていましたし、多いときはSL 3両でものすごく長い貨物列車を引っ張っていたらしいんです。そうなると駅で行き違いするためには大変広い駅が必要になりますよね。しかもカーブだったりするんで、それが見どころになります。皆さんが駅のホームに立って写真撮っても、大きな広いホームの中をですね、向こうから列車がカーブを描きながら走ってくるなんていうシーンが見られますので、それはぜひ見ていただきたいのと、駅舎自体でおすすめは油須原駅ですね。実は私うろ覚えだったんで、夕べ行ってきたんです。この駅は当時の建物そのままなんです。木造の駅舎が。例えば玄関先に柱が立っていますけど、その足元の礎石が格好良く削られていて、それが花崗岩なんですね。花崗岩の上に木の柱が立って、上にも柱頭飾りって言うんですけど、木で額縁を作ってあって、めちゃくちゃ格好良いです。そこにちょっと演出で昔ながらの看板とかが設置してあって、雰囲気のある駅ですね。
2019.03.08[Fri] 00:00
2月17日の放送番組から気になった一部の内容を紹介します。
ゲスト ミュージアムプロデューサー 砂田光紀 様
山本:「雛(ひいな)のまつり」の「ひいな」は、お雛様の「ひな」ではなくて「ひいな」というのはどうしてなんでしょうか?
砂田:普通はひなまつりとか雛人形とかいう言い方をしますが、古い絵巻物とか文書とかを見るとやはり「ひいな」と表記しているものが多いということで、今は雛人形で定着しているけど、ひなまつり、でもひいなの祭り、古式ゆかしい言葉を使おうじゃないかと「ひいな」を使っておられるそうです。
山本:今でももう「ひいなのまつり」で定着しましたね。
砂田:そうですね。可愛いですよね。
山本:可愛いと思います。子どもたちも言いやすいし。お人形たちもたくさん並べられていますけれど、どうやってあれだけのお人形が集まってきたんでしょうか?
砂田:こういったひなまつりを主催しておられる人形研究家の瀬下麻美子さんは、個人的にこれを全部買い集めているんです。
山本:じゃあ個人のものなんですか?
砂田:もういらなくなったものを、じゃあくださいと言っているわけではないんですね。ですから人形の時代性とかグレードとかをよく判断しながら集めていますので、飯塚の雛人形は非常に質が良くてバラエティに富んでいると。もちろん高価なものだけじゃないんです。例えば「雛軸」と言いますけど、例えば炭鉱住宅に昔暮らしていて、一生懸命働いていて、でも雛人形買えないなというときに、そのお父さんお母さんがじゃあこの子のために何かないかなと、そういう方々のために掛け軸にお雛様の絵を描いて、それを飾ってあげたと。それにみんな目をつけておもちゃ屋さんはせっせといろんな形の雛軸を作るんですけど、その雛軸にも非常に素朴なものから、浦島太郎の絵がなぜか下に書いてあったりとかするんですけど、そういうモチーフをつけて雛軸と言うものを作っていっぱい売っていた、それが今でもたくさん残っています。そういうものを入手、展示もしますし、逆にもう一つ大きな特徴がありまして、九州は大名家の雛人形が良く残っているんです。例えば東北地方とか行きますと、雛人形というのはかなり少なくて、幾多の戦乱とか飢饉とかいろんなときに焼かれたり捨てたり流出したりが多かったんですが、九州はご存知のように島津であったり立花であったり、あるいは久留米の有馬であったり、そういったところが持っていた雛人形が焼失・流出しなかったんですね。
山本:それは貴重ですね。
砂田:ですから、今でも大名家の末裔の方が持っていたり、あるいは流出したとしても地域に残っていたりというのがありますので、出物でそういった関連の方がお持ちの物が売りに出たりとか、ちょっとこれどうしたらいいのかわからないという方も多いので、それを引き受けて、それが展示されるわけですから、非常にグレードの高い人形も手に入るわけなんですね。
山本:なるほど。私はいろんなお家の人が「うちのもどうぞどうぞ」とそうやって集まって来たのかと思っていたんですけど。
砂田:そういうやり方をされるところも多いので、それはそれで私はとても良いことだと思いますけど、でも飯塚の瀬下さんの人形の特徴は、一つはそうやって一つ一つ吟味して集められた人形、古今東西問わずですね。それを上手にアレンジしながら展示紹介していく。あと雛道具のコレクションが半端ないんですね。これがいわばミニチュアですね。当時の所帯道具とか、宮中あるいは大名家のミニチュアを雛の道具として使っておられる、それだけ展示しても非常に迫力があるんで、よく雛道具の展示室も作られるんですけど、これをご覧いただくと、精緻さとか美しさに皆さん感動されますね。
2019.02.22[Fri] 00:00
2月10日の放送番組から気になった一部の内容を紹介します。
ゲスト 宮地嶽神社宮司 浄見 譲 様
益田:今週は宮地嶽神社についてのお話を伺いたいと思います。今日のゲストは、宮地嶽神社宮司の浄見 譲さんにお越しいただいております。
益田:最近「光の道」とかで興味を持つ方が多いと思いますけど、宮地嶽神社そのものについて教えていただいていいですか?
浄見:皆さんある程度地理が詳しくていらっしゃるでしょうから大体どの位置かお分かりでしょうけど、一番北の方から宗像大社があって、それから私どもがあって、筥崎さんがあって、それから太宰府さんがあるという、そういう遠浅の海があって、それでこちらには松林があってという中の内陸部に神社さんがあるという、そういう位置づけですよね。
そうするとですね、やはり今から2000年以上前になると、この辺は非常に素晴らしい良港であったということが思い浮かびますよね。そうすると当時の船というのは底が平べったい船だったので、大陸から文化が運ばれてきて、その文化がどーんと北部九州の海岸線に渡り着いて、それで船をあげてそのまま文化はこの北部九州の地に眠っていく。皆さん方はこの地域を大事にしながら文化が発展していく、そういう歴史の中の流れがあるんでしょうけれど、そのものを運んできた、文化を運んできた人たちが俗に言う海人族(あまぞく)っていう人たちが向こうから入って来られて、それでそういう人たちの文化がここに眠っている、宮地嶽神社っていうところは志賀島にあります志賀海神社だとか同じご祖先さんを持っていまして、海人族の中にも住吉族という方もいらっしゃって、宗像族という方もいらっしゃって、出雲族という方もいらっしゃって。みんな「すみ」という字が付くんですね。
なぜ「すみ」っていうかというと、当時のパスポートは入れ墨だったんですね。船の入れ墨が胸に書いてある、彫る。それが「むなかた」と。そこから来ているんですね。だから私どもは阿曇(あずみ)というんですけど、俗に言う阿曇族というのはツタンカーメンだとかクレオパトラが眼のふちに入れ墨していますよね。あれを安曇目(あずみめ)って言いますけど、そういう目の入れ墨をした人たちのグループが阿曇族という人たちだったと言われているんですね。そういう方々がこちらに渡って来られて、大きな文化圏を作られて、その大きな文化圏の流れの一つが今日では宮地嶽神社の古墳、また宮地嶽神社というところで、それらの人たちの文化を未だに醸し出している、というのが宮地嶽神社の成り立ちなんです。
ですから、そういうものを統合したところが大宰府の都府楼という。ですから大宰府の都府楼というのは、大宰府が先ではなくて都府楼というのが先に作られて、その後に菅原道真さんの物語が出てきて、菅原道真さんのことがあったので、あそこに菅公さんをお祀りする大宰府が作られたと。元々だから大宰府というところは、北部九州の今で言う首都だったんでしょうね。ですから、そういうところから筥崎さんがあって、宗像さんがあって、私どもがあってというこの北部九州にいろんな文化を伝えてきた神社が未だにたくさん多く眠っているという。
益田:特に旧筑前の国は本当に宝庫ですよね。
浄見:そうですよね。ですから、それこそ歴史の中で言うと今福岡築城450年でしたっけ、ああいうことをおっしゃっているんですけど、実は築城450年以前のほうが素晴らしい文化があったということを、思い出していただきたいし、思い起こしておいていただきたいし、博多に住む人、福岡に住む人たちは、そんなに長い歴史があるんだっていうことはぜひインプットしていただきたいです。
2019.02.12[Tue] 00:00
2月3日の放送番組から気になった一部の内容を紹介します。
ゲスト 赤間宿まちづくり リーダー 仲尾等 様
益田:今週は宗像市の赤間宿についてお話を伺いたいと思います。赤間宿に詳しい仲尾等さんにお越しいただいています。こんにちは。仲尾さん、自己紹介をお願いします。
仲尾:はい。私の家は赤間宿のちょうど真ん中にありまして、築150年という古い家に住んでおります。
益田:ということは江戸時代ということですか?
仲尾:そうですね。江戸時代後期には建てられていまして、乾物商をやっているようですね。
益田:代々続いていた商売を。今は別のお仕事につかれているんですね?
仲尾:そうですね。
益田:江戸時代からの街並みが残っているということですね。仲尾さんのお宅のお隣とかお向かいとかは結構有名な施設がありますよね。
仲尾:そうですね。観光情報の発信基地の赤馬館とかですね。映画で有名になった出光佐三さんですね。「海賊と呼ばれた男」、佐三さんにちなんだ資料室があります。
益田:お隣ですよね。赤間宿ということで、本来は宿場町ということで、唐津街道の筑前21宿のうちのひとつということなんですよね?栄えていたのはいつぐらいまでなんですか?
仲尾:これですね、たぶん今のJR、これが博多の方から伸びてきて明治23年に赤間駅ができたんですけれど、やっぱり駅ができると人の流れとか物の流れが変わりまして、だんだんと店が少なくなって。それで大型店舗ができて、商店街が少しずつ寂れていったのかなというところですね。
益田:あのあたりは、宿場町の時代から交通の要衝ですよね。
仲尾:そうですね、いろんな交通の要衝でもあったり、みなさまの物流の拠点というか、もう花嫁道具一式、赤間に来れば揃うぞということで、それぐらい栄えていたようですね。
益田:赤間っていう地名はそもそもどういうところから付いているんですか?
仲尾:元は赤い馬と書いていたんですね。それで「あかま」と読んでいたんですけども。古い話ですけれど、神武天皇というのがおられまして、大和の方に出向かれるときに、宗像市の八所宮というお宮がありまして、そこの神様が道案内をした。そのときに赤い馬に乗っておられたんですね。それで道案内をしたということで、それにちなんで赤馬(あかま)と。それから「赤間」に変わっていったということですね。
益田:宗像大社との関係っていうのは、赤間宿の方は何かあるんですか?
仲尾:そうですね。元々宗像大社っていうのは神郡という、神様の郡ですね。全国に8か所あるんですけど、広い地域を支配していまして、赤間、宗像ですね。福津、それから古賀とか新宮、鞍手の方まで含めて、広い神社の所領だったんですね。それで私たちももちろん氏子になって、信奉しているというか、そこらへんの方々はやっぱり宗像大社というと強い想いがありますね。
益田:結構幕末の重要なお話も残っているみたいですね。
仲尾:幕末というといろいろ揺れ動いたんですけれど、その揺れ動いた中ですね、尊攘派と言いますか、そういう公家さんたちがこれは危ないぞということで、京都から7人が大宰府の方に逃れて来たんですね。そのときに、そのうちの5人の方が赤間のお茶屋というところで滞在をされたんですね。
益田:いわゆる五卿ですね。
仲尾:ええ。5人のお公家様がですね、25日間滞在したということで。というのも黒田藩の方もですね、どうした扱いにしようかということでだいぶん悩んだみたいですね。
益田:最初から大宰府へお連れするということは決まっていたんですか?
仲尾:行きたかったようですけど、黒田藩で処遇がなかなか決まらなかったようです。どういうふうな扱いをしたらいいのかということで。結局はもういわゆる罪人というか、困った人というかたちで、お茶屋の方というか赤間の待遇も一般の旅人と同じような扱いにさせていただいたんです。
益田:今赤間宿の入口というか、大きな記念碑が立っていますね。
仲尾:元々はお茶屋の跡に立てたんですけど、今は学校跡地になっていまして、法然寺というお寺さんの横に。目立ちやすいところなんですけど、そこに立っていまして。その時はですね、いわゆるもう雲の上の人が来たということで、今で言う色紙ですね、サインをしてくれとねだったみたいなんですよ。コネを使ったりお金を使ったりしてですね。
益田:有名人の扱いですね。
仲尾:そうでしょう。雲の上の人で、とても会える人じゃないので。
益田:赤間宿はそのとき大騒ぎになったんでしょうね。
仲尾:ええ、てんやわんやだったということが記録に残っています。そういうときのいわゆる色紙みたいなものが、短冊ですけど、残っているところもあるみたいですね。
益田:昔からの旧家が残っているお宅、ずっと住んでいる方も結構いらっしゃるんですか?
仲尾:約半分ぐらいはまだ住んでいますね。
益田:ということはそういう資料とかがまだ宿場町に残っているということですね?
仲尾:ええ、結構残っていると思います。ただもう蔵の中とかですね、どこかに仕舞い込んでおられる方も多いですね。
益田:そうですね、代替わりすると何があるかわからなくなってしまうという。宿場町の時代の名残というのは街並みの中に残ったりするんですか?
仲尾:じっくり歩いてみると、いわゆるこう建物ですね、壁の厚さが厚くて。塗り籠め(ぬりごめ)と言いますけど、一尺ぐらいですか、30センチぐらい。うちのもそうですけど、そういう塗り籠めの家がほとんどですね。
益田:塗り籠めというと、わかりやすく言うと?
仲尾:土壁みたいなものですね。
益田:白壁ではなくて?土壁という。
仲尾:ええ、それにまた白壁をこう、漆喰を塗ったりですね。平入り(ひらいり)とか妻入り(つまいり)とかありまして、道に面した形も違うわけです。そしてあと屋根の形も様々ですね。
益田:屋根の形というのは、瓦が違うとかいう以前に?
仲尾:もう屋根の形そのものが切妻(きりづま)とか入母屋(いりもや)とかいろいろ言うんですけど、兜造り(かぶとつくり)とかですね。もういろんなのがあって、それがごちゃごちゃにこう混ざっているんですよ。だから一軒として同じ家がないんですよね。
益田:それはそれでちょっと面白いですね。
仲尾:だからそういうところに関心のある方は、一軒一軒見るというのも面白いかもしれません。
益田:赤間宿の楽しみ方のひとつですね。
2019.01.30[Wed] 00:00
1月27日の放送番組から気になった一部の内容を紹介します。
ゲスト 珈琲はうす おおいし 大石幸典 様
益田:今日は福岡の戦後の喫茶店の歴史について簡単にお話させていただきます。福岡市の喫茶店、戦前からやっているお店というのは、実は今店屋町にありますカフェ「ブラジレイロ」という店だけなんですけど、戦後になると昭和24年前後ぐらいから新しい喫茶店が増え始めるんですよ。この時代にオープンしたのが、喫茶はもうやっていませんけど、「風月」さんとか、最近復活した「ばんぢろ」さんとか、昭和の名店と呼ばれたお店が次々にオープンして、福岡は昭和30~40年代はもう大喫茶店ブームの時代が来ています。だからもう一つの街にいくつも喫茶店があるという時代があって、高度成長期を経て、新幹線の開業後さらにまた喫茶店がブームになるんですけど、多くの喫茶店がやっぱり一代限りなんですね。後継ぎがいらっしゃらなくて、もうお店を閉めて違うお店になるというのが非常に多くて、入れ替わりが激しかった。その中で昭和55年に博多駅南にオープンしたのが、今日来られている大石さんの「珈琲はうす おおいし」ということになります。
山本:大石さんはコーヒーハウスのオーナーとしてデリバリーしていただけではなくて、ちょっと違った形態のデリバリーをなさっていたそうですね?
大石:最初は家庭用のポットにレギュラーコーヒーを詰めまして、それで量って紙コップの杯数を決めまして18個前後、シュガー、ミルク、混ぜ物をワンセットで、貸し会議室の方に貼り紙をしましてね。セットで2,000円から2,500円ぐらいの値段で、セルフでどうぞということが始まりだったわけですね。それが好評で、「マスター、人数が多いから今度は2本にして」「今度は3本にして」とだんだんエスカレートしていきまして、ポットは前の日にあった分を回収するまでの間に、今度は明くる日にまた別の配達がありますので、例えば1か所で2本用意しないといけないんですね。3本の注文だったら6本用意しないといけない。知り合いの県の医師会というところなんですけど、そこで頼まれるのはありがたいんですけど本数が足りませんので、もうローテーションが間に合いませんのでここにマシンを持ち込みますと。テーブルだけちょっと拝借させてくださいと。あとは下にビニールシートを敷いて、テーブルクロスを掛けて、マシンをそこに2台置いて、マシンから出たコーヒーをそこにストックするタンクと言いますか、保温ポットの8リットルサイズ、10リットルサイズのものを置きまして、そこで喫茶コーナー、コーヒーコーナーというものを作ったわけですね。
山本:じゃあ大石さんは会議の間中そこに常駐されるということですか?
大石:そうですね。
益田:その時代は、福岡ではコーヒーをその場所に行って淹れるというようなサービスをやっているところはなかったんですね?
大石:ありませんでした。だから現場で即興のコーヒーコーナーを構えて紙コップで立ち飲みできるというようなスタンスをとるお店というのはありませんでした。また今は店を完ぺきにやめましたけども、どうしても大石さんのコーヒーを持ってきてくれというのは未だに2グループ残っています。
益田:まだ行かれているんですか?
大石:はい。もう今度は自宅からです。自宅からでもいいからということで。
益田:大石さんの理想とする喫茶店って何ですか?
大石:そうですね。私も学会とかいろんなものに供給をさせてもらいましたけど、その中でもやっぱり愛知のがんセンターから来られている先生もいらっしゃいました。その先生と私と単独でお話した中の話なんですけど、人間1日に3回コーヒーを飲む時間を作ってほしいということを聞いたわけですね。それはコーヒーが目的ですかって聞いたら、いやコーヒーが目的じゃなくて、つまりこれだけパソコン、いろんなもののストレスがある現代で、1日に3回ぐらいくつろげる時間をちょっと作ってほしい、その時にコーヒーを飲む時間を作ってほしいということですね、ということを言われたわけなんです。つまり午前中の、出勤されてお昼休みまでの間、10分ぐらいで結構です。コーヒーでなくても結構ですので、ちょっと頭を空っぽにする時間を作ってほしい。そのときにレギュラーコーヒーを飲まれたら、身体の方の神経もちょっと、カフェインが入っていますのでちょっと刺激性があって、次のラウンドに行こうというやり方ということらしいんです。それをストレスの解消のために、食後のコーヒーも入れまして1日に3回、ティータイム3時頃を作ってほしいということなんですね。私から言いたいのは、コーヒーはとにかく何々のコーヒーだからとか、どこの産地のコーヒーだからとか、そういうことにはこだわらずに、自分のお口にあったコーヒーを、美味しいと思われるコーヒーを、何でもいいです。それがブレンドであろうがサントス、コロンビア、モカ、キリマンジャロ何でも結構です。美味しいと思ったコーヒーを手元に置いてくつろいでほしいというのが私の本音ですね。
益田:そういう空間を提供するという?
大石:そうですね。そういう空間を、あったらいいなということですね。それも気楽にとにかく行けるところということですね。
益田:ありがとうございました。
2019.01.28[Mon] 00:00
1月20日の放送番組から気になった一部の内容を紹介します。
ゲスト 珈琲はうす おおいし 大石幸典 様
益田:今日は福岡の喫茶店文化の歴史を辿ってみたいと思います。昔ながらの喫茶店は年々減っていっていますけど、実際に喫茶店をされていた大石幸典さんにお越しいただいてお話を伺っていきたいと思います。
大石:喫茶店を昭和55年から開業いたしまして、去年平成30年の10月末をもって閉店させてもらいました。
山本:昭和55年オープンということですが、そのときの喫茶店はどんなものが主流だったんでしょうか?
大石:ほとんどがスナック喫茶でしたね。
益田:お酒が出るということですかね?純喫茶というかたちではなくて。
大石:そうですね、お昼はコーヒー、食事、そして夜はアルコールに切り替わるというお店ですね。
山本:そういう形態をスナック喫茶っていうんですね。
益田:さかのぼってみると戦前からやっぱり同じような形態の喫茶店ってあるんですけど、戦前はそういうお店はカフェーって言っていたみたいですね。アルコールも出すお店はカフェーで、コーヒーが主体のお店はコーヒー店、もしくは喫茶店と。
山本:そういう中で「珈琲はうす おおいし」は純喫茶?
大石:そうですね。やっと見つけた場所、お店をバックにして180度見ますと、もうすでに5、6軒喫茶店が見えていました。それがほとんどスナック喫茶だったんですね。だから私はあえてコーヒー専門店をやろうということで、あまりバリエーションを広くせずに絞ってやろうと、コーヒーに関する商品を絞ってやろうということから始めたわけですね。
山本:そうですか。種類を絞って?
大石:はい。つまり、あまり幅広く商品を出しますとどうしても品物が薄くなってしまうと言いますか、薄っぺらくなってしまうという意味合いですかね。そんなふうに私は感じ取りましたので、まあ一点集中主義という感覚で、やはり良いものを徹底的に追求してそれをお客さんに供給しようという、コーヒー専門店という考え方で取りかかったわけです。
山本:特に大石さんが、コーヒーをこれに絞ったといういくつかを教えていただけますか?
大石:そうですね、当時どこのお店に行っても薄いアメリカンタイプのコーヒーが主流の時代だったんです。アイスコーヒー、ホットコーヒーが普通でしたけども、一時期的なものでしょうけどアメリカンが主流の時代だったわけです。コーヒーも、出てきますとカップの底が見えるくらい薄いコーヒーでした。
益田:紅茶みたいな感じですか?
大石:そうみたいですね。何で?と言ったら、いや今までは男性の方の昔から戦前戦後の方が主流の飲み物というイメージを脱却するために、やはり女性に親しんでもらおうと薄く飲んで飲みやすくしようという名目で始まったのが由来ということなんですね。
益田:アメリカンって、そんなかたちで始まっているんですね。
大石:ということを聞いたような記憶があります。ですから、私はその薄いコーヒー、それはそれでいいんですけど、私のお店のほうとしてはやはりわざわざ足を運んでもらって休憩に来られるお客さんは、コーヒーを飲んで会社に戻られてテーブルに着くまでの間に口の中でコーヒーの香りが残るくらいの、苦いコーヒーではなくて、香りとコクのあるものを目標にして作ったわけなんです。
山本:でもそのポリシーが何だかこうすごく響きますね。
益田:そうですね、私もいくつかメニューを試させてもらったりしたんですけど。
山本:ここに「珈琲はうす おおいし」の最後のメニューがありますね。アレンジコーヒーがまた面白くて。
益田:そうですね、アレンジコーヒーだけでもかなりの数、30ぐらいあってですね。
山本:ちょっと気になるものを言ってもいいですか?モカケンブリッジ。これはどういうコーヒーなんでしょうか?
大石:これはアイス系統のアレンジコーヒーなんですね。モカケンブリッジ、これはあくまで私のほうで勝手に名前を付けさせてもらったものなんですけど、ベースとしてはやはりアイスコーヒーにアイスクリームを入れて、それを今度はチョコシロップを少し垂らしましてね。それもミキサーにブイーンとかけるわけです。そしたら泡が立って、要するにブラウン系の飲み物ができるわけですね。それを氷の入ったグラスに頭から直接注いでいただくと、ビールのように上の方は泡が立って、下はちゃんとオーレの色なんですね。飲みますとチョコシロップの香りがして、それでお客さんがおいしいと言った時には必ず上唇に泡が付いているという。
山本:これちょっと作り方を聞くとおうちでもやってみたいなと思いますけど、たぶん違うんだろうな。
益田:ですね。大石さんのところで今風でいうインスタ映えっていうことで若い人たちもよく頼んでいたのがカフェオレで。大石さんのところのカフェオレは本当に綺麗ですよね。
山本:何が違うんでしょうか?
大石:インスタ映えするそのカフェオレっていうのはアイス系統なんですね。ロングタイプの、少し長めの円筒形のカップを用意しまして、氷を先に入れまして、今度はミルク、普通でいうオーレですのでミルクとコーヒーですよね。ですけど、私の方としては先にミルクに味、甘みを付けたガムシロップを含ませまして、それを3分の1ほど注ぐわけです。それを10秒ほど置きますと落ち着くわけですね。注いだときは波立ちますので。それを待って、それから今度はロングスプーン、我々はティースプーンと言いますけど、ロングスプーンでアイスコーヒーを入れた器からそれに当てて注いで、氷にめがけてゆっくりと注いでいくわけです。
山本:スプーンの柄の部分から?
大石:柄の部分に当ててですね。柄の部分をつたって氷に当たるように中で入れていって、ちょっと時間をかけてゆっくりと上げていくんです。そうしたら、ガムシロップの入っているミルクですので、濃縮されて比重が違うわけですね。ですから下の方に沈殿して固まるわけです。アイスコーヒーは比重が軽いですので、ですから上に置くわけです。だから綺麗に下がホワイト、上はブラックのツートーンのコーヒーができあがるわけです。
益田:綺麗な二層の、はい。
山本:お客様はそれを飲むときに自分で?
大石:はい。ただ最初に私はストローを付けて出しますけど、あえてそれを混ぜないでくれと。まずそれを見てくださいと。
益田:見て楽しめる、大石さんのこだわりがつまったメニューだったんですね。
山本:まさにこれパチリとやりたくなりますよね。
大石:そしてストローで下の方のミルクの味を味わっていただいて、それからゆっくりと混ぜていただいて、次に味わってくださいと。大きく分けて2段階に味が変わりますよということですね。
山本:その大石さんのコーヒー、お話聞けば聞くほど飲んでみたいんですが、今ではもう飲めないというのがとっても残念ですね。
益田:幻になってしまいまして、私は最後閉店する前に大石さんにおねだりして、アイリッシュコーヒーとか先程のお話のカフェオレを、実際淹れているところも全部写真に撮らせてもらったんですよ。
山本:うらやましいです。
2019.01.23[Wed] 00:00
1月13日の放送番組から気になった一部の内容を紹介します。
ゲスト 筑紫野市教育委員会 小鹿野亮 様
小鹿野:筑紫野市の原田という場所があるんですけど、そこには筑紫神社という神社がありまして、その筑紫神社の御祭神になっているのが、筑紫の国の神であります「筑紫神(つくしのかみ)」というのを祀っていますので、そこに筑紫(つくし)という音を残しているということにはなるんですけども、非常に重要な神社だというふうに思っているんですね。
山本:筑紫神社が重要な場所というのは、どういった意味があるのでしょうか?
小鹿野:これは地理学的な研究になるんですけど、筑紫神社があるところを中心に、国境が引かれているという考え方があるわけですね。しかもその国境は直線なんですよ。放射状にまっすぐ伸びるということが言われていまして、わかりやすいのは筑紫神社から筑紫野市の原田ですけども、南に行きますと、今の小郡市と佐賀県基山町の、言い換えれば県境になるんですが、まっすぐ南北に県境が伸びているところがあるんですよ。そのあたりにぶち当たってくるんですね。実はその国境線は古代の官道なんですけど、そういう意味で境目にある神社として古代から非常に重要なんですね。
それと筑紫神社自体は、平安時代の10世紀に書かれている延喜式という文献資料があるんですけど、延喜式に記載がされている神社なんです。朝廷から神様の位をもらっていますけど、言い換えれば平安時代からすでに、同じ場所かどうかはわかりませんけど、筑紫神社というのはあったということになりますから、そういう意味では古代史で、地域にとって重要なんですね。ましてや冠に筑紫という字がついておりますから、そういう意味で重要というのは、そういう理由ですよね。
山本:もうそのままの形で残っているんですか?
小鹿野:神社はですね、建物自体は新しいもので、だから全く古いものがそのまま残っているわけではありませんけれど、場所が非常に大事ということで。これは実は説話がありましてね、筑紫のその由来ともつながってくるんですが、国境の坂があまりにも険しくて、馬の鞍が擦り切れるんで鞍を尽くすと言ったのが転化して「つくし」になったという説があったりとか。もう一つが、荒ぶる神が境目にいて、人々が往来するのを邪魔して命を落とすというようなことがあったらしいんですね。命を落とす、命尽くすということからという説があったりとかですね。
それから筑紫神社の御祭神の筑紫神とですね、そういった伝説、今言っているのは、逸文といっている風土記が作られますね、それの断片的なやつを集めたなんですけれど、その中に記載があるそうで、古い呼び方としては「つくし」という言い方が音としては正しいのかもしれませんけど、ただ先程お話したように奈良時代にすでに「ちくし」と「つくし」が併存しているという状況もありますから、そのあたりは当時どういうふうに使い分けられていたのかが分かりかねるというのが現状なんですけどね。
益田:確証になるものがないということですか?
小鹿野:そうですね。筑紫神社がある場所というのが国境でもあって、名前がそのままついてますからね、古いということもはっきりわかっていますし、重要な場所だっていうのはやっぱりそういう意味でしょうね。
益田:先程筑紫神社がですね、延喜式という話がありましたけど、九州18か所あって、そのうち11が昔の筑前の国にあったということで、その一つが筑紫神社ということになりますね。そのあたりの位置関係なんかは私すごく興味があるんですが、例えば筑紫神社と竈門神社の上宮を結んで、その延長線上に筥崎宮があって、さらにその延長線上に実は志賀海神社があるんですね。一直線につながっているということだったり、同じ延喜式の中にある美奈宜神社なんかは、今度は筑紫神社から放射状に伸びていると。そういったことからも位置関係が重要なんじゃないかと思っていますけど、小鹿野さんはどう思われます?
小鹿野:難しい問題ですよね、これはね。
益田:証拠が出てこないので。でも偶然とは思えない。例えば筑前一之宮ですね、住吉神社と香椎宮は本殿の位置って志賀海神社を起点にすると距離が同じなんですね。2メートルから3メートルしか誤差がないです。
小鹿野:偶然ということはなさそうなんですけど、証明するのがやっぱり難しいところですね。古代の測量というのがどうだったのかということもあると思うんですが、実態がわからないというか。
益田:どういう測量法だったのかもわからないんですよね?
小鹿野:そうですね。測量道具が何を使っていたとか、そういうことも全くわからないものですから、何とも言いようがないんですね。ただ、直線というのは古代の謎を解く一つのキーワードになるだろうというふうには思っています。古代の道も直線、大宰府の都市も碁盤の目状にはなっていますけど直線ですよね。朱雀大路はですね、方位が適当に作っているわけじゃなくて、東西南北にぴちっと方位が合っているんですね。だからそういうことを考えると、おそらく今でいう天文学みたいなことなんかもやったんでしょうし、実態はわかりませんけどね。風水とか、これはたぶん技術だと思いますけど、取り込まれてはいたんだろうなという想像はするところなんですよね。
益田:結界をはるようなイメージですかね?街を、その都市を守る、神社を守るという。
小鹿野:今は街っていうと面というイメージがありますけど、古代の街っていうのは線でつながっているという、そういうイメージなんだと思っているんですよね。だからそういう意味で直線と、益田さんがおっしゃった神社の位置関係なんていうのも、やはり一直線上に並ぶっていうと、これは何かありそうだと。
山本:そうでうね。確かに、線と考えると何となくしっくりくる。
小鹿野:実際そこに古代の遺跡がどういうふうに広がっているかとか、私たちもいろんな視点をもって評価をしていかなければならないんだろうなというふうには思っています。
2019.01.18[Fri] 00:00
1月6日の放送番組から気になった一部の内容を紹介します。
ゲスト 筑紫野市教育委員会 小鹿野亮 様
小鹿野:福岡という街は弥生時代以来ですね、2000年以上前から、海との関わり、大陸との関わりがものすごく深いわけですね。そういうわけですから、神功皇后伝説のような物語、実際それが本当かどうかという問題はありますが、残ってきているんだと思います。特に福岡には伝承地が多いですよね。そもそも神功皇后というのは仲哀天皇の妃なんですけど、福岡で一番関係が深いのは熊襲を討伐するときと、朝鮮半島の新羅を征討するという物語が有名だと思います。
山本:どれぐらい前のお話なんですか?
小鹿野:古事記と日本書紀ですね。これにその物語が記述されているんですけども、素直に読むと1800年ぐらい前の人物ということにはなるそうなんですが、もし神功皇后が実在したと仮定した場合ですね、4世紀から5世紀の初めのことだと言われているようです。
山本:その神功皇后についてはいろいろなお話がありますよね?
小鹿野:新羅を攻めるということが書かれているんですけれど、筑紫の橿日宮に来るわけですよね、そこから西へ行って、今の唐津の辺り、松浦で鮎釣りをして占いをしただとか、妊娠して身重でありながら男の格好をして新羅を攻めるために海を渡ったとか、武人としてのイメージもあるんですね。朝鮮半島との関わりの中で神功皇后という人物をよりどころというか、そういう風にして物語として地域に定着していくと。いろいろな神社との関わりが深いですよね。海八幡は応神天皇ですね、息子ということに一応なりますね。ですから、応神天皇の出生の地が宇美町ということに、その場合はなるでしょうし、だから宇美町だというふうに言っているらしいとか、応神天皇のおしめを変えたから志免町だとか、嘘っぽいようで本当のような、冗談のような話なんですけど。
山本:でもそういう伝説が残っているんですよね?
益田:博多湾沿岸は多いですよね。
山本:私、卑弥呼のモデルなんじゃないかという話も聞いたことあります。
小鹿野:そうですね、そういうことをおっしゃる方もいますね。ただ、実在性とその時代ですよね。なかなかそのあたりが難しいところではありますけど。
山本:はっきりとこうですとは言えないところにまたロマンを感じますよね。
小鹿野:そうですね、おっしゃるとおりだと思います。
益田:神功皇后伝説、いろいろありますけど、その時代を含めて朝鮮半島との関わりについて、いろいろ残っている話もあるんですよね?
小鹿野:時代は、いろいろな時代にわたってくるとは思うんですけど、例えば神功皇后の伝承が残っているところで、神功皇后が新羅から帰られて都へ戻られるときの物語で、ショウケ越と言って今の福岡から飯塚の方へ抜ける峠があります。弥生時代とか非常に古い時代からの古道だと言われていて、そういったところを越えてですね、今の飯塚の大分(だいぶ)八幡というお宮があって、そこで兵を解散するというような物語があるんですけど、何を申し上げたいかというと、実はその先にある豊前とか筑豊とか、あの地域には実は新羅のデザインを用いた古瓦がたくさん出土するんですよ。
古代から渡来人が、特殊な技術を持ってこちらにやって来て、例えば焼き物を焼くだとか、瓦を作るだとか、織物を織るだとか、そういうような技術を持って日本にやって来て、特に福岡はそれが多いんですよね。もちろん近いせいもあるんですけど、そういった物が出てきますし、先程お話した太宰府でも、実は新羅のその製品だと言われているんですが、佐波理(サハリ)という錫と銅の合金で作られたお椀みたいなものだとか、スプーンですね、匙とかも出土していまして、これは太宰府市になるんですけども、奈良の正倉院の宝物にもそれが入っているようなものでして、そういったものが太宰府あたりにも持ち込まれていたりとか、いろいろな関わりが深いんですね。
山本:それは技術を持った人が来て伝えたということでしょうか?それとも、その物自体が?
小鹿野:それは両方あると思います。物自体がやって来ることも、例えば先程の青磁の壺ですとか、そういうこともありますし、古代の日本には青磁とか白磁、いわゆる磁器ですね、焼く技術はありませんので、全部海外から持ってきて、というケースもありますし、逆に、養蚕なんてそうですよね、絹織物なんていうのはもう弥生時代から出てきますけれど、そういう技術は朝鮮半島から渡ってやって来たのだろうと思いますよね。
そのほかにも、志賀島には志賀海神社というのが祀られていますが、志賀海神社は海の神様ですよね。海を渡る航海の技術とか、あるいは海上の交易をしたりとかを担っていた阿曇氏という氏族が、その祭祀をつかさどって、管理をしていたということで、その神功皇后が新羅を攻めたときには、神功皇后は志賀島に立ち寄って、阿曇の磯良という人物に舵取りを務めさせたというような伝承もあるそうでして、海との関わりが非常に深い物語も残されています。
2019.01.10[Thu] 00:00
12月30日の放送番組から気になった一部の内容を紹介します。
ゲスト ミュージアムプロデューサー 砂田光紀 様
山本:今年最後となりました。今日はですね、大晦日、そしてお正月の過ごし方、昔からどんな風に過ごしていたのかなというのを聞いてみたいのですが、砂田さん、昔の文献などに残っているものはありますか?まずは大晦日から。
砂田:そもそも大晦日って何だろうと。昔は年取りの晩って言ったんですけど、それは世の中が年を取る、人間が一つ年を取るということで年取りの晩なんですね。この年取りの晩に、前回も少しお話をしたかもしれませんけど、要は時間が非常に不安定になるんです。前の年と次の年の間で時間が入れ替わらなければならない、そこはとても不安定な場所だから魔物が現れやすいんですね。昔の記録とか、つい最近までの習俗とかにもあったんですけど、まず一般家庭ではどうしたかというと、雨戸を閉め立てます。そして、履物を全部家の中に隠します。さらに井戸の釣瓶や竿、洗濯物を干している物干し竿ですね、こういうものを立てかけてその先に竹で編んだ籠を引っ掛けておくんですよ。家の中では囲炉裏に普段は焚かないような大きな木をくべて、一晩中火を絶やさないで家の中で静かに過ごすんです。これは何でかっていうことですね。
益田:言われたように、魔物が入って来ないようにということですか?
砂田:まず存在を消してしまうわけです。要するに、魔物が来た時にどこかに人間はいないかとなりますが、おりませんよという作戦ですね。じゃあなぜ竹の籠を下げておくのかというと、昔から魔物は嫌いな模様が決まっているんです。例えば、バツ、鍵型、L型のようなもの、渦巻きも嫌います。全世界的に魔物はこういうものが苦手なんです。
もっと言えば星形、陰陽師で出てきますね。星形にしゃっしゃっと印を切りますけど、これも封じ込める力を持っていますから、一筆書きの星を描いてみてください、真ん中に閉じ込められるじゃないですか。だから、籠は魔物にとっては非常に恐ろしいもの、ドラキュラにとっての十字架みたいなものですね。そういう模様はいろいろあって、ギザギザの鋸歯文(きょしもん)、鋸というのはのこぎりですね。のこぎりの歯の文様を鋸歯文というんですけど、こういうギザギザ模様とかも嫌います。そういう嫌いなものを用意するんですね。だから籠目というのは、昔から鶏を閉じ込めたりとか、そういうことにも使いましたし、あるいは鳥を捕まえるときにも使ったりして、要は封じ込める力があるから、竹の籠を外に吊るして、とっ捕まえちゃうぞと威嚇するわけです。村の入口に大きなわらじとか下げるところあるじゃないですか。あれも、この村にはこんなお前より怖いのがいるぞと。だから巨大なものを作るときは大体そういう理由があります。大晦日の晩は魔物が入ってくるということを昔の人はよく分かっていたということになります。そういうふうに意識していたということですね。
神社とかではどうかというと、今で言えば半紙ですね、和紙を人型に切って、その人型のものを力のある、例えば神社の宮司さんとかが一般の方の背中にサッサッサと当てて悪いものをそこに封じ込めて、その人型に切った和紙をフッとひと吹きして川に流すんです。これは実は雛祭りとも関係があるんですけれど、身代わりですね。その人についた一年の悪いものを全部付けて流して新しい年を迎えることで、魔物の侵入をそこでシャットアウトするという、大祓と言いますが、大祓の儀式をいまだにやる神社が九州にもいくつかあります。ですから大晦日の晩は浮かれて外に飛び出すよりも、本当は昔の人は静かに家の中で過ごしていたということになります。
2019.01.07[Mon] 00:00
12月23日の放送番組から気になった一部の内容を紹介します。
ゲスト ミュージアムプロデューサー 砂田光紀 様
益田:今日はクリスマスのイルミネーションが輝いているということで、クリスマスにまつわるお話をミュージアムプロデューサーの砂田光紀さんをお招きしてお話を伺います。
砂田:よろしくお願いします。
山本:今日はクリスマスについて伺っていますけど、サンタクロースというのも当時一緒に入って来たんでしょうか?
砂田:サンタクロースがいつ入ってきたのかも詳しくわかっていないんですよね。全世界的かというとそうではなくて、クリスマスイブにプレゼントを持ってくる人は、実は男性とも限らない、国によっては魔女が持って来たり、いろいろな違う名前の男性が持って来たりとか、真っ赤な服を着ているとも限らない。しかしながら必ず誰かがプレゼントを届けてくれたり、やって来ると。
山本:年末は必ず誰かが来るんですね。
砂田:まあ、そういう例は多いです。じゃあなぜかっていう話になるんですけど、突飛な話をしますが、日本で大晦日にやって来るものって知っています?紅白だけじゃないんです。例えば東北秋田とか行くと、なまはげがやって来ますでしょ?今はいろんな時期に冬になると現れる観光用のなまはげもありますけど、本来的には大晦日で。
九州で言うと鹿児島県の甑島という島があるんですけど、この島ではトシドンという神様が子どものいる家にやって来るんですよ。この神様がちょっと怖くて、首無し馬に乗ってくるというんですよ。すごい恰好をしています。鬼みたいな面をかぶって、ソテツの葉っぱで飾ったりとか、それで鼻が高かったりとか、牙が出ていたり、集落によっていろんなかたちがあるんです。その神様が「オラー!」とか言ってドンドンドンと玄関を叩くわけですよ。それまで紅白を楽しく見ていた家族団らんにいきなり。それで親も電気を消しちゃったりなんかして。「オラー、○○はいるか?」って名前もばれているという。なまはげと全く同じですね。ただ、なまはげは包丁を持っていますけど、トシドンは刀を持っています。もちろんフェイクの刀ですけど。これがやって来て、「ほらここに正座しろ」「座り方がなっとらん!お前らは」とか言い始めるわけですね。例えば「お前は最近ゲームばかりして全然勉強していないだろう」とか「昨日妹を泣かしたな」とか言うんですよ。ドンピシャなんですね。子どもの方は完全にびびり上がってしまったところに、ゲーム機も取り上げてしまったりするんですね。それで子どもたちはもう泣きじゃくっている状態で、そこで「よし!一曲歌え!学校で習っている歌を歌え!」とか無理難題を吹っ掛けるんですが、子どもたちは必死で対応するんですね。親は笑いながら後ろで見ているんですけど、たまにトシドンの使いに扮した近所の人たちが竹ぼうきで壁をガサガサってやって一緒に脅したりして。それは単に子どもをいじめているわけではなくて、トシドンは天の上からいつも見ているぞ、と言うわけですね。来年もまた来るからねと言われると、子どもたちも何が何だかわからなくなって「ハイ」とか言っちゃうわけです。「じゃあわかった、後ろを向け」「お母さんの言うこと、おばあちゃんの言うことをちゃんと聞け」と言って、後ろを向いたらトシドンが「今からお前に良いものをあげるから」と、背中に大きな鏡餅を背負わせるんです。それの名前が何と言うと思います?トシドンは言うわけですよ、「これをお前に渡すから、これを食べれば一年風邪を引かずに健康でいられる」と。
山本:お年玉?
砂田:そう、「トシダマ」っていうんですよ。皆さんね、お金を渡せば良いってもんじゃないんですよ。子どもたちに、一年間元気に生きていけるエネルギーを渡してくれるんですよ。そして、また来年も来るからねという一言を残してトシドンは首無し馬に乗って去っていくという。
山本:もともとお年玉というのはお餅だったんですか?
砂田:全部がそうとは申し上げませんけど、そのお年玉という言葉が意味するのは全く同じものだと僕は思っています。そして、なぜそんなことを言うかというと、先程申し上げた秋田と鹿児島、この離れたところに大晦日の晩にやって来る神様。全国には、神様は現れなくても、実は仮面来訪神、あるいは仮面じゃないかもしれませんけど、来訪神が大晦日の晩にやってくるという伝承自体は日本中にあるんです。ということは、この習俗は日本中にあったと考えるのが柳田国男的な民俗学の考え方なんです。
仮面来訪神に限らず異形の来訪神が特に大晦日にやって来るのには実は事情がありまして、来訪神がやって来るときって、時間の流れがすごく不安定になっているときなんですよ。私たちは一年中漫然と過ごしている気がしますけど、よくよく考えてみたら春夏秋冬で暦ができていて、大晦日の晩は一年が終わって次の一年に突入する境目なんですね。境界というのはとにかく魔物が侵入しやすい不安定な時期という考え方が世界中にあります。ですから、その不安定な時期は本当のことを言うとみんな家でじっとしていなければならない、そこにつけ入るように悪い神様がやって来たり、あるいは悪くもない神様もやって来るんですけど、そこで人間悪いことしてないか、ちゃんと暮らしているかっていうふうに覗いていくんですよ。そこに悪い霊が入ってくることも無いとも言えないので、皆さんがいろいろな飾りつけをして魔物を除けるんです。そういった例は九州内各地で見ることができるんですけど、お正月の門松とか、あるいはちょっと時期がずれますけど、元々本来的な意味は似ているんですが、節分の焼嗅(やいかがし)とか。軒先に柊の葉っぱと、昔は鰯の頭を刺していたんですけど、要は、鰯は臭いがしますよね、特に時間が経つと腐ってきたりして。その力と、柊の葉っぱのトゲトゲが、魔物が嫌がるものなんですよ。さあそこで考えていただきたいんですが、皆さんクリスマスに玄関先に何か丸い物を下げませんか?
山本:リース。
砂田:リースって柊の葉でできていて、そこに赤い実がついていますよね?そこが共通するわけですね。だからクリスマスツリーも針葉樹を使いますよね。モミの木にデコレーションしてキラキラと輝かせますよね。門松は、今はああいう形で竹を鋭く切ったものが3本に、松と赤い実が飾られて、皆さん縁起物だと思っていますけど、一番不安定な時間帯をそれで守っていると考えられます。
益田:除夜というか。
砂田:年取りの晩というのが正解なんですが、その時にしめ縄を張って、昔は。要は、魔物はここまでですよと、良い物しか入れませんよということで、橙がぶら下がっていますよね、適当にこれを持って帰ってくださいと。そこに炭がぶら下がっていたりしますが、炭は全てのものを清浄なものにするものですね。だから魔除けのシステムとしての機能が実は門松とかにはたくさんあるんです。正月の話はまた置いておいて、とにかくクリスマスと日本の正月飾りとかと、あるいは節分と非常に合致した部分があります。それとサンタクロースですけど、サンタクロースはよく得体のわからない人ですよね。でも子どものもとにやって来る、そしてプレゼントを置いていくところってトシドンとかと同じですよね。
山本:本当ですね。でも着ているものは違いますよね?
砂田:トシドンは白で作った蓑みたいなものを体中に付けていたりとか、あるいは萱とか藁とかみたいなもので草の衣を身に着けていたりして、自然のものを身に着けています。
山本:でもサンタクロースは赤くて可愛い服ですよね?
砂田:サンタクロースの赤の話も諸説ありますよね。某飲料メーカーのキャンペーンで赤くなったんじゃないかとか、そういう話もありますけど、こればかりはよく分からなくて。しかし赤だったり青だったり国によって象徴する色があるんですね。とても面白いのは、なまはげも天の上から見ている神様で、怖い神様だけど子どもたちを守ってくれる、我々人間にとっては実は味方の神様ですよね。サンタクロースも同じように家々を回って貧富の差を問わず子どもたちにプレゼントしてくれる神様、つまり子どもたちに何かを置いていくわけですよ。非常に共通した要素が多くあって、これは偶然でも何でもなくて、やはり年の変わり目に対する発想というのは世界的に共通だったのではないかと文化人類学的には考える人も多々いらっしゃいます。
益田:年の変わり目を意識するということ自体が、そういうことなんでしょうね。清めて。
砂田:そうですね。何とか一年過ごせたよと、次の年もまた無事であってほしいなと、スムーズに年が入れ替わってほしいというのは、昔から西洋東洋問わずあったのかなと思います。