福岡のFMラジオ局 LOVE FM。周波数76.1MHz。九州北部広範囲をカバーする10ヶ国語の多言語放送局。
Podcast
2018.12.26[Wed] 00:00
12月16日の放送番組から気になった内容の一部を紹介します。
ゲスト 朝倉市役所商工観光課 観光振興係長 隈部 敏明 様
山本:先週に引き続き、朝倉市を益田さんと歩いてみたいと思います。
山本:朝倉市の江戸時代というとどんな歴史があるのですか?
隈部:数年前に大河ドラマで軍師官兵衛というのがありましたが、官兵衛がらみの話が市内にいくつも残っています。市内の杷木という地域に円清寺というお寺があるのですが、栗山善助が、主君である官兵衛が亡くなったときにその菩提を弔うために建てたお寺なんですね。そのお寺の中に官兵衛の肖像画が残っています。これは県の指定文化財になっていて、この肖像画の上に賛(さん)って言いまして、いろんな功績を書く文書があります。その一部が実は消されているんですね。字数で言うと20字ぐらい、そこだけが真っ白に塗り潰されています。
山本:そこだけが。これは謎解き甲斐がありますね。益田さん何だと思いますか?
益田:官兵衛と言えば、キリシタン?
隈部:キリシタンですよね。だから江戸時代になるとキリシタンは禁止されますよね。官兵衛がキリシタンだったことを隠したいということで、実はそこに何が書いてあったかと言いますと、「一旦南蛮宗門に入り」というような言葉が入っていると。南蛮宗門というのはキリシタン、キリスト教のことですね。だから官兵衛がキリシタンでしたよ、という文字がそこに入っていたんですね。それが残ってしまうと困るので、そこの字を消したと。
益田:それは誰が消したんですか?
隈部:息子の長政かもしれないですね。あまり知られていないのですが、長政もキリシタンだったんですね。前回話しました秀吉が九州に来た時に、長政もキリスト教に入信しているんですね。徳川家康がキリスト教を禁止し始めると真っ先にもう自分はキリスト教を捨てていると。江戸幕府に寄り添っていってますんで、だからお父さんがキリシタンだったのは隠さないといけない、それで消したんじゃないかなということですね。
山本:これも隈部さんの推測ですね。
隈部:長政が消したかどうかはですね。消してあるのは間違いないですね。
山本:消してあるのは見ることができるのですか?
隈部:普段は公開していないです。写真とかは出してありますので、見ることはできます。
山本:杷木の円清寺、お出かけになってみてください。
2018.12.19[Wed] 00:00
12月9日の放送番組から気になった内容の一部を紹介します。
ゲスト 朝倉市役所商工観光課 観光振興係長 隈部 敏明 様
山本:朝倉市の戦国時代を案内していただきます。
益田:ここはすごく私興味がありますので、ぜひお聞きしたいです。江戸時代、黒田藩の支藩として秋月が繁栄していくわけですけれども、その前の秋月市の話に興味がありますので教えていただけますか?
隈部:江戸時代は福岡藩の支藩ということで秋月藩。ただお殿様は黒田と言う名前ですね。ところがそれ以前、鎌倉時代から戦国時代ぐらいまでの長い間、400年ぐらいは秋月と言う名字の方が秋月一帯を治めていたということなんですね。
秋月さんと言うのは実は鹿児島の島津と非常に仲が良かったんですね。それで大分の方に大友宗麟というキリシタン大名がいますけど、あちらとしょっちゅう戦って非常に仲が悪かった。それで島津の方が大友宗麟の方を攻めていきます。そうすると秋月さんは島津の方が好きですから、こちらと一緒に大友を攻めようとするわけですね。大友の方はどんどん弱くなって攻められて困ってしまって、大阪にいた豊臣秀吉の方に助けを求めるんですね。それで豊臣秀吉はこれを機会に九州を自分のものにしようということで、九州にやってきます。九州征伐ですね。
九州の島津をやっつけに来た時に、島津としてはまず秋月さんに戦ってくれということで、秋月藩が豊臣秀吉と戦います。それで添田の方に岩石城というお城があるんですね。秋月さんとしてはこれを3ヶ月ぐらい籠城して、その間に島津が応援に来て相手をやっつけようと考えていたんです。ところがそこがたった一日で落城してしまって、これは大変ということで引き揚げて来たんです。それで今嘉麻市の所に益富城というお城があるんですけども、そこに帰って来ていて、一日で落ちましたという情報が来るんですね。これはいかんということで、秋月の方に戻ってきて、秋月の北側に古処山という山があるんですけど、ここは秋月さんが拠点にしていたお城があります。そこからちょうど大隈の益富城を見ていたら豊臣秀吉がそこまで攻めてきて、一夜のうちにそこにお城ができちゃうんですね。障子紙とか貼ったりとか、お米を流して川のように見せたり、実際はお城じゃなくて張りぼてだったんですけれど、古処山の方から見るともうお城ができたように見えちゃったんですね。
山本:賢いですね。
隈部:秀吉と言う大変な人に喧嘩売っちゃったかなということで、慌てて降参をしてしまうんです。それで頭を丸めて。そのとき秋月さんが持っていた、名器といわれる茶器「楢柴肩衝(ならしばのかたつき)」というもの献上してどうにか命を助けてもらおうと。
山本:茶器一つで命が助かるんですね。
隈部:人の命よりも茶器の方が。
益田:秀吉にまつわる逸話、らしいと言えばらしいですね。
隈部:秋月さんはその後どうなったかというと、秋月にいられなくなって、お前はちょっと遠くへ行ってしまえということで、宮崎県の今の高鍋町っていう場所に移されるということになるんですね。それがちょうど天正15年、1587年の話ですね。
益田:じゃあその秋月さんが統治していた時代の秋月・朝倉エリアと言うのは、やっぱりそれだけ長い間治めていたということは、いろんな痕跡を残しているのですか?
隈部:それが、あまり痕跡が残っていないんですね。先程お話しました古処山の山頂、ここにはお城や堀の跡だとかの痕跡はあるんですけど、たとえば今の城下町の秋月の中にというとなかなか痕跡はなくてですね。
益田:城下町秋月そのものは秋月さんが最初に?
隈部:元々はいたんですけれども、今の町の形になったのは江戸時代になってからです。ただ、秋月の中に一箇所だけ伝説が残っているところに腹切り岩という大きな岩があるんです。直径で4~5メートルぐらいあるような大きな花崗岩なんですけれども、そこに腹切り岩という伝説が残っています。
益田:怖いですね、腹切り岩。
隈部:ちょうど豊臣秀吉が攻めて来るっていうときの話なんですけど、先程言いました秋月さんが、秀吉が攻めて来ますよっていうときに、どんな相手かなということで偵察を出すんですね。恵利内蔵助という家臣ですが、ただ行くだけだと豊臣秀吉も会ってくれないんで、一応秋月さんとしては降伏の使者を派遣しました。それで豊臣秀吉がじゃあ会ってやろうということで会います。それで恵利内蔵助は豊臣秀吉を見て、あ、この人はもう喧嘩を吹っ掛ける相手じゃないなと分かっちゃうんですね。軍勢とかも見て。本当は嘘で降伏に来たところなんですけれど、心底これは刃向ってはいけないと、本心から降伏しますと言っちゃうんですね。そのときに刀だったりをもらったりして秋月へ帰って来ます。それで殿様に、豊臣秀吉に刃向ったら危ないですよという話をするわけです。
ところが秋月さんとしては、いやいや鹿児島の島津のほうが強いと思っているので、お前何を怖気づいているんだと。もしかして裏取引でもして来たんじゃないかと疑うわけですね。そうなると恵利内蔵助としては、自分で腹を切って、お殿様に刃向うわけではないですよと示したんです。
裏取引をしているわけではないんですよという身の潔白と、秋月家を残さないといけないんですよということで、命を懸けて進言をしたわけなんです。それがその大岩の上で、という風に言われています。
隈部:ところがそれを秋月さんは聞き入れなくて、先程お話したように戦ってしまって降伏しちゃうということになるんですね。そういう悲しい伝説が残っている場所があります。
益田:そんなお話があるんですね。そこは普通に見に行くことができるんですか?
隈部:はい、普通に見に行くことができます。
益田:先程、秋月氏はその後宮崎の高鍋に移されたと伺いましたけども、そちらでも話がいろいろ繋がっているのでしょうか。
隈部:そうですね、秋月から宮崎の高鍋というところに行くんですけど、高鍋という所と今の串間市、二つを飛び地で領地をもらうんですね。その一つの串間市の方、都井岬に野生馬で有名なところがありますけれど、これが実は秋月さんが都井岬を見て、ここが田んぼ作ったり畑作ったりとかできる場所ではなかったので、馬を放牧しようと、軍馬を育てようという場所にしたわけですね。それがスタートで、今それが自然と野生化していって。ですから都井岬の馬っていうのは、きっかけはその秋月さんがそこで馬の放牧を始めたことなんですね。300年ぐらい経った今は自然と繁殖させるような場所になっています。
山本:じゃあ最初の馬からずっと繋がって、今もすごい数がいるんですか?
隈部:日本固有種が残っているということで、国の天然記念物とかにも指定されています。ですから都井岬に行ってもらえれば、そこは実は朝倉の秋月さんが最初のきっ
2018.12.13[Thu] 00:00
12月2日の放送番組から気になった内容の一部を紹介します。
山本:さあ、もう12月。今日は12月2日ですが、この時期よく演奏されるのは、ベートーベン作曲の交響曲第九番、通称「第九」ですよね。日本で初めて第九が演奏されたのは、九州なんですって?!
益田:そうです。 “九大フィル”、九州大学のフィルハーモニーオーケストラですが、当時は「九大フィルハーモニー会」という名前だったそうです。1924(大正13)年の話です。天神にようやく「九州鉄道」今の「西鉄天神大牟田線」が開通し「福岡駅」ができた年、その直前の話ですね。で、なぜ第九が演奏されたのかといいますと、当時の皇太子殿下(後の昭和天皇)のご成婚があった時なんです。福岡市でのご成婚記念演奏会を九大フィルがやるということになり、その演目の一つが「第九」だった!これが、国内で初めて第九が演奏された記録になるのだそうです。
山本:これは興味深いですね。
益田:当時のプログラムでは、4曲目に「ベートホーフェン作曲・第九交響曲最終楽章」の文字が!ベートホーフェンはベートーベンです。この時は歌も歌われたらしいです。ただし、そのままベートーベンの「歓喜の歌」を訳したのではなくて、皇太子のご成婚を祝う日本語の歌詞に置き換えられて歌われたそうです。
山本:聴いてみたいですね。
益田:そうですね。しかし、残念ながら日本でラジオ放送が始まる2年前。なので音源は遺ってないようです。
山本:じゃあ第九はまさにその時のライブだけ、ということですね。
益田:九大フィルというのは、国内でも最古級のアマチュアオーケストラだそうで、発足は1909(明治42)年。当時は九州大学ではなく「福岡医科大学」という名前で、フィルハーモニー会として発足。年に2回の定期演奏会を当時から現在まで続けているんだそうです。
終戦後になって自由に演奏ができるようになってから、1953(昭和28)年に同会のOB=卒業したメンバーや福岡放送局の管弦楽団のメンバーが集まって、指揮者・石丸寛と一緒に結成したのが「福岡交響楽団」、現在の「九州交響楽団」なんだそうです。
山本:歴史を紐解いてからまた第九を年末に聴くと、ますます壮大な感じがしますね。そして、福岡と音楽を語る上でもう一人、重要人物がいらっしゃるとか?
益田:大正から昭和にかけて国内外で活躍したソプラノ歌手に、「荻野綾子」さんという方がいらっしゃいます。現在、新天町がある場所は「福岡高等女学校」でした。荻野さんはそこに通われたあと「東京音楽学校」(東京芸術大学の前身)を卒業されて、童謡「赤とんぼ」等で知られる世界的に有名な作曲家・山田耕筰さんに師事して飛躍。パリに三度の留学を経て、ソプラノ歌手になり、日本にフランス音楽を紹介した方なんですよ。
山本:当時フランスへ留学って、大変なことでしたよね。
益田:飛行機はまだ飛んでませんから、船と汽車ですよね。その時代に三度も留学!福岡高等女学校は現在の「福岡中央高校」の前身です。余談ですが、漫画家の「長谷川町子」さんはこの学校に入学しています。
大正末、荻野さんを中心にして「福岡歌唱研究会」というのが発足します。福岡市で西洋音楽を愛するという空気が、先ほどの九大フィルも含めて、“演奏して楽しむ”から、さらに“歌って楽しむ”という時代になったんですね。
山本:これは一般の人、ということですか?
益田:一般といっても、大学教授夫人を中心に商店主などで構成した、当時の上流階級的な方々がまず歌唱会を始められ、荻野さんは名誉会員になりました。昭和初期には福岡で“大歌唱ブーム”が起こったそうです。
実は、こういった背景が、実はNHK福岡放送局の開局を後押ししているわけですね。やはりラジオのメインは音楽。そういった世相もふくめて、福岡には魅力的な音楽シーンがあるということが、福岡にラジオ文化が早く根付いたきっかけになっています。
残念ながら、荻野さんは第二次世界大戦中、1944(昭和19)年に若くして亡くなられました。戦後、地元ではほとんどその名が忘れ去られているような状態です。一部、荻野さんを慕い研究していらっしゃる方々が「荻野綾子顕彰会」等で周忌コンサートを開かれたりしています。
余談ですが、柳川出身の北原白秋作詞、山田耕筰作曲の「からたちの花」は、山田さんが荻野さんに向けて作った曲なんだそうです。ぜひこういう機会に知っていただけたらなと思って話させていただきました。